97年から書き続けたweb日記を、このたびブログに移行。
「メッセージ」と「あなたの人生の物語」
「メッセージ」を観た。映画の原題は「Arrival」。原作は、テッド・チャンのSF短編。「あなたの人生の物語」。



原作が収載された同名の短編集を読んで、新鮮な衝撃を受け、感想を過去ログに書いたのが2004年。SFの世界では、ヒューゴー賞、ネビュラ賞ダブル受賞という作品はまず外れがない。

原作は、エイリアンとのファースト・コンタクト物。地球に飛来したエイリアンとの意思疎通を図る女性言語学者が、時制を超えリニアな時の流れに束縛されない異星言語を調査、解読してゆくうち、自らの認識に変容を起こし、時空を超えた一種の超感覚知覚を身に着けることになる。全ての未来を知った上で織りなす娘との関係が詩情に溢れて描かれている。

最初にこの原作を映画化すると聞いた時、本当に映画化ができるのかと危惧したが、映画化は、原作をかなり忠実に踏襲しつつも、新たなエピソードも加えて成功している。原作を先に読んでいてもある意味深く感心する出来。むしろ原作を読まずにいきなり映画を観ると、ちょっと意味が分からない部分があるのでは。

もちろん、若干のモディファイはある。映画版「メッセージ」では、主人公母娘の関係についての描写は、若干薄くなっている。

しかし、最初から物理学者を登場させたのは正解。原作ではエイリアンとのコンタクトに出てくるのが言語学者のみ。クック船長が南洋の島で原住民と最初に交流するのなら、自分の顔を差して名前を呼ぶのから始めるだろうが(それでも大変な間違いが起こるのは映画でもカンガルーのジョークとして扱われている)外宇宙から飛来した人類と全く違うエイリアンと意思疎通するならば、英語を書いたりしゃべるよりも、やはり宇宙を統括する真理、純粋数学や元素周期律表等の情報交換から始めるのが普通だと思うものなあ。

原作で言う「ルッキング・グラス」の向こうに登場する霧に煙る巨大なタコ型エイリアンと彼らが投影する「異星文字」もなかなか印象的に映像化されている。主演のエイミー・アダムスも、原作の透明感をそのまま投影して実に素晴らしい。

そして原作が優れている場合、映画で原作にないエピソードを挿入すると大概失敗するものだが、「メッセージ」に新たに挿入されたエピソードは、印象的に作品全体の分かりやすさを高め、作品に深い陰影を与えている。

エイリアンが去った後、悲劇に終わりかねなかった中国軍のエイリアンへの総攻撃が何故回避できたのか。パーティーでの中国軍元帥と主人公の出会いは、映画の伏線を一気に回収するエピソードとして鳥肌が立つほど素晴らしい。脚本家が実に優れていたな。

最初から調査に同行する物理学者イアンと主人公との関係についても、原作を補完して、物語を実に分かりやすく俯瞰できる映画的な効果を上げている。自分の過去と未来が全て同時に俯瞰できるようになっても、悲劇に終わる愛娘との物語を選択する主人公。DVDが出たら必ず買わなくては。あ、まだ劇場でもやってるか(笑)


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「クリード チャンプを継ぐ男」を観た。
Amazonに発注したブルーレイで、「クリード チャンプを継ぐ男」を観た。



世紀の傑作とまでは思わないが、実によく出来ている。シリーズの第一作「ロッキー」は、underdog(負け犬)が血の滲む努力をして強者に泡を吹かせると言う、古今東西を問わず人の心を熱くするストーリーの歴史的金字塔。脚本・主演のスタローンはこれ一作で世界的大スターになった。

本作品は、もう一発当てようという商売気ではなく、スピンアウトとして持ち込まれた企画が実現したそうだが、「ロッキー」シリーズのバックグラウンドを巧みに織り込みながら、第一作の「ロッキー」に似たカタルシスを観客に与える事に成功している。最後のチャンプとの対戦で「ロッキー」のテーマが流れるのは若干反則のような気がするが(笑)、まあスタローンは「俺の映画で俺のテーマソング使って何が悪い」と言うだろう。

「ロッキー」は元々「3」で終わるはずだったらしいが、「4」「5」「ザ・ファイナル」と制作。本作は、「4」で扱われたアポロ・クリードの死と「ザ・ファイナル」で描かれたロッキーの老残の延長線にあるもの。「5」は出来がイマイチだったので、「ザ・ファイナル」は観なかったなあ。

「5」は、実際に白人のヘビー級チャンプとなり「ホワイト・ホープ」と呼ばれたトミー・モリソンが出演して話題となったが、その後モリソンは、HIV感染が明らかになりボクサー人生に終止符を打つことに。マイク・タイソンと対戦する大型契約もあったらしいが、全てが消滅。余計な現実の蹉跌が記憶に残っている。

アドニスとメアリー・アンとの最初の出会い。「He is my husdand」、「You are his son」と微妙な距離感を持って語られる会話は、アドニスの出自が後に語られて納得。アパートメントで大音響で音楽を流すビアンカの背景、教育も受けタブレットやPCを使いこなしながらも血に飢えたボクサーへ傾倒してゆくアドニスの父親に対する屈折した想い。脚本も細かい所がよく出来ている。

誰もが弱みや深刻な問題を抱えているが、それと戦い超克する事が尊いのだというメッセージは、第一作「ロッキー」から継続するテーマ。今の御時世ではシンプルでストレート過ぎるかもしれないが、しかし多くの人の心を打つ。


「沈黙 サイレンス」を観た。
先週土曜日、日比谷に出て「沈黙 サイレンス」を観た。



遠藤周作の小説「沈黙」を、マーティン・スコセッシが映画化。

「神」という概念が生まれて以来、人の心を惑わせてきた深刻な問いが「神の沈黙」。

天災や戦乱や病苦。この世は至るところ悲惨や不幸に満ち、義人にすら時として苛酷な運命が待ちうけ、恐ろしい艱難辛苦が与えられる。それらは本当に全てが神の御意志なのか。我らが神を求めても、神は何一つ我らにその声をお聞かせにならないではないか。神は本当に存在するのか。これは宗教そのものの存立を脅かす実に危険な問いでもある。

先にキリスト教布教のために来日した師が棄教したと聞き、その真相を確かめるために日本に来たポルトガルの宣教師。日本で弾圧をうけるキリスト教に帰依する農民たちと共に生き、しかし自らの為に農民たちが次々と拷問を受けて死んでゆく地獄の中で問うた「神よ、あなたは何故沈黙しているのですか」という血を吐くような問いと、クライマックスで脳裏に響くキリストの声。実に印象的なシークェンス。

日本人の俳優は実に重厚。よくあんな昔風の顔ばかり集めることができたと感心。田舎の旧家に行くと、昔の御先祖様の白黒写真が障子の桟の上に飾ってあったりするが、正にそんな顔だ。

貧しい農民を演じる塚本晋也の、黒光りするような存在感が素晴らしい。CG使っていると思うが、磔にされて海の波に翻弄される場面はこの映画全編を通じて弾圧されるクリスチャンを象徴する圧巻の迫力。

キチジローは、ユダでもあり、狂言回し、トリックスターでもあるのだが、人間の矮小さと醜さ、それでも残る信仰心と原罪とを一気に体現している印象的な役柄。これを窪塚洋介が見事に演じている。

通辞役の浅野忠信、井上筑後守役のイッセー尾形は、腹に一物あり、冷酷でしたたかな、封建時代の支配層を描いて実に鮮やかに成立している。外国人監督が演出して、日本人役の演技にここまで違和感が無いというのも驚き。

実際には彼らが農民を虐殺しているのだが、司祭に「お前たちの栄光のために農民たちが死んでゆくのだ」と迫る巧妙なレトリックも彼らの冷徹な知性を象徴している。

前に居た宣教師が覚えた日本語は「ありがたや」一言。日本の全てを下に見ていた彼は、教えようとするばかりで何一つ学ばなかった。キリスト教はこの日本には根を張れないのだ、とロドリゴに畳みかける台詞は、「神の栄光を伝える我らのみがこの世の正義」というカトリック宣教の傲慢を皮肉な一面から照射して、司祭を棄教へと追い詰めてゆく。井上筑後守役が常に扇子で虫を払っているのは、「蝿の王」であることを寓意しているのではとさえ思わせるシーン。

以前、キリシタン一揆で有名な天草に行った事があるが、小さな島が連なり、平地は少なく山ばかり、港に適した場所も少なく見るからに貧しい土地。あんな所で苛酷な年貢を課されたら生きてゆくだけでも大変だったに違いない。現世が地獄であるからこそ、ここではない楽土「パライソ」を希求する心が芽生えたのだろうなと納得のゆくような風土。エンドロールを見ると、どうもほとんど台湾で撮影したようだが、長崎、熊本辺りの寒村を実に良く現しているなあと感心。シーンは悲惨だが、映像は素晴らしく美しい。暗く重たいが、魂をゆざぶる素晴らしい映画。

過酷な弾圧を受けた貧しい農民たちが、血と涙の中で夢見た「パライソ」は、まだこの世に顕現していない。




映画「この世界の片隅に」を観た。
土曜日のお昼は、映画「この世界の片隅に」を観に劇場へ。小さな箱なのだが、結構混んでいる。予告編でやたらにアニメ作品が紹介されるのにはちょっと閉口したが、観客層にはあまりコアなアニメファン感無し。


 
そもそも、こうの史代の原作を読んでいたく感動し感想を過去ブログに書いたのは2009年の8月。まだアメリカに住んでいる時。

絵を描くのが好きで、空想癖のある主人公すずは、18歳で軍港、呉の家に嫁ぐ。戦時下の質素な婚礼が開ければ、次の日から毎日真っ黒になって、掃除や洗濯、裁縫や畑仕事、薪での風呂炊きなどの家事に朝から晩まで追われる日々。しかし、そんな当時としては平凡な市井の暮らしにも、幸せや愛や思いやり、嫉妬や哀しみや諦観、そして切ない別れの物語が存在している。その背景には、登場人物全てを覆い隠し、次第に広がる戦争の暗く重い影。

数少ない台詞の変更と背景などの追加はあるが、原作の持つ深く静かな感動は、ほぼ正確にアニメーションとして再現されている。アニメの声優は苦手だが、主人公すずを担当する能年玲奈(本名)は、最初のシーンから上滑りすることなく既にマンガで確立した主人公に、静かで自然な血肉を与えている。違和感の無い実に良い出来。事務所と契約問題で揉めて干されているらしいが、勿体無い話だ。

こうの史代原作の叙述形式には独特の癖があり、寄せては返す波のように、新たな物語と過去の物語とを自在に繋いでゆく。コマに描き込まれた情報量は実に多く複雑で、時として読者を混乱させるほど。しかしアニメーション化にあたっては、ストーリーは十分に吟味され整理されて組み込まれており、原作よりも逆に分かりやすい作品として成立している。

ただ、おそらく「戦争のできる美しい国ニッポン」を声高に礼賛する勢力の昨今の台頭を考慮したのか、語るべき事を残し無用な軋轢を避ける為の用意周到な微調整だとも思われるのだが、原作と比較すると、いくつか削除されたり、変更された台詞がある。

すずを訪ねて来た幼馴染の水兵水原の言葉。「わしが死んでも一緒くたに英霊にして拝まんでくれ」という台詞は原作でも印象的な言葉なのだが、確か映画では無かったんじゃないかな。

そして玉音放送を聞き、集落に朝鮮の国旗が掲げられた家があるのを見て、すずを襲った激しい感情。「この国から正義が飛び去って行く」、「暴力で従えとったいう事か」、「じゃけえ暴力に屈するいうことかね」、「それがこの国の正体かね」、「うちも知らんまま死にたかったなあ」という、裏切られた絶望と憤激を吐露する一連の台詞は、もっと穏当な物に差し替えされている。

そして白木リンを巡る物語が何故か語られていないのも、尺の問題というよりも(楠公飯のエピソードなんて描く暇あるんだからw)軍港にある軍人用の遊郭の話だから、慰安婦問題などを考慮して忌避したようにも思われるのだが。

しかし映画のラスト、全員が原作を読んでいると思われるクラウド・ファンディング協力者への謝辞ページの下に映されるのは、原作通りの、すずの想像力(あるいは右手)が紡ぎ出した物語。草津のお祖母ちゃんの家の天井から出て来た座敷童子と白木リンを結びつけるファンタジー。そして映画の数少ない白木りんの登場場面で語られる「アイスクリームとウエハー」がこの場面に登場している事に注意深い観客は気づくだろう。歌舞伎ではないが「芸が細かい!」と大向うを掛けたい(笑) こうの史代の芸風だ。

もっとも、微妙な調整はあるものの、語りたかった事の真の根幹は用意周到に全て語られ、物語はオリジナルの持つ底深い力を全く失ってはいない。原作を読んだ人も、読んでいない人もこの映画には深く心を打たれるだろう。実に素晴らしい作品。

原爆で焦土と化した広島で、すずの右手に縋り付いて来た孤児。すず同様右手を失くした母親、しかし逆の左手に手をつながれていたこの子は、いわば助かったかもしれない「晴美さん」の生まれ変わり。原作にある、「よう広島で生きとってくれんさったね」というすずの言葉はそれを踏まえて発せられていると思うのだが、映画では省略されていた。 まああまりにも説明的か。しかし、エンド・ロールでは、この孤児が北條家に受け入れられ、すくすく育ってゆくポートレートが明るく描かれ、物語に最後の大きな安堵と救いを与えている。

こうの史代が丹念に綴る物語には、いつもながら深く感心する。そしてこの映画化も、戦争下の市井の生活を描いた素晴らしい作品として長く人の記憶に残るに違いない。これは、ドンガドンガと太鼓を叩く反戦映画ではない。しかし原作の持つ静かなメッセージはしっかりと伝わっている。過去ブログにも書いた私自身の感想を再掲しておこう。

我々は大切なものを、いつだって失い続ける。しかしその、光きらめく記憶が胸に宿り続ける限り、日々の暮らしを、ただ静かに生きて行くことは、きっと意味のあることなのだ。


「スポットライト 世紀のスクープ」 DVD。
「スポットライト 世紀のスクープ」をAmazonで購入。暫く観る時間が無かったのだが、本日鑑賞。

以前、劇場で観て大層感心して、過去ログに、「スポットライト 世紀のスクープ」を観たを書いたことがある。

ピューリッツァー賞に輝いたボストン・グローブ紙の調査報道チームの実話を映画化。ボストンの街を舞台に、カトリック教会神父による子供たちへの性的虐待が多発していること、枢機卿を含む教会がこれをひたすら隠蔽していることを白日の元に晒し大きなセンセーションを引き起こした。

深刻で重たいテーマを扱うのだが、重厚な演技派が脇役に至るまで揃い、実に見ごたえあり。真実を巡る緊迫した追求の応酬と攻防の虚実。ボストンという古い街と、カトリックという古い宗教を背景に、重厚なドラマが見事に成立。

新聞記者達も正義の鉄槌を振り下ろした正義の味方とだけ描かれているのではない。何かがおかしいと思いながら結果的に見過ごしてきた邪悪。マイケル・キートン演じる主人公の心中に去来する苦い後悔。

エンドロールのクレジットには撮影監督に、マサノブ・タカヤナギと日本人名が出るのを発見。添付の資料を読むとやはり日本人で東北大学卒業後渡米してアメリカで撮影監督になったのだとか。日本人のグローバル進出も着実に進んでおりますな。


「エクス・マキナ」をDVDで。
以前、週刊誌の映画評で見て気になっていたブルーレイがAmazonから届いたので早速観賞。



「エクス・マキナ」

しかしパッケージをよく見るとヒスパニック版。あれ? 再度Amazonで調べると、DVDも同梱された日本版は11月18日の発売なのだそうで、間違えて発注したのか。しかしこのブルーレイはリージョンフリーで日本語字幕も選択でき、鑑賞には何も不都合無し。そもそも映画の日本公開が遅れた為に並行輸入されたもののようだ。

検索エンジンのトップ企業であるブルーブック社で働く若きプログラマ、ケイレブ・スミスは社内公募に当選し、巨万の富を得た天才にして会社の創業者であるネイサンのコロラド山中にある隠された豪邸に招かれる。そこで彼を待っていたのは、ネイサンが開発中の女性型アンドロイド「エヴァ」であり、ケイレブはエヴァに対して対面での「チューリング・テスト」を実験として行ってくれという奇妙な申し出を受ける。

チューリング・テストとは、その対象が人間と区別がつかないAI(人工知能)と呼べるかどうかを確認するテスト。ガラス越しに美しいアンドロイドと対話するうちに、ケイレブは次第にこのアンドロイドに惹かれてゆく。

登場人物は実に少なく、物語は、AI(人工知能)との奇妙な交流が、テンションに満ちた密室の心理劇として描かれ、サスペンスにあふれたSFスリラーとして展開してゆく。そして最後に訪れる、息を呑むどんでん返しと破局。随所に散りばめられたAIと人間の自意識を巡る衒学的なやり取りも印象的だし、CGを使ったアンドロイドの描写も実によく出来ている。アカデミー視覚効果賞は伊達ではない。

ケイレブ役の俳優はいかにもオタク風。これが、特に後半の展開に至って大変効果的なキャスティング。闇を感じさせる天才、不可解な登場人物であるネイサンの人物造形も印象的。独特のアクがある中南米系の顔立ちに見覚えがあると思ったら、ドライヴ の、スタンダード役だったのであった。あの映画も実によかったなあ。DVDは手元にあるのでまた見直さないと。
(過去ログの感想はこちらに。)

題名は、ギリシャ語由来のラテン語成句「デウス・エクス・マキナ」から来ている。ギリシャ悲劇に登場する、「機械仕掛けで登場する神」、"god from the machine"の意。「デウス」が除かれているから「From the machine」となるが、成句を知っていると、機械仕掛けの、神でも人間でもない存在として描かれるAI(人工知能)が暗示的に思い起こされる実に印象的な題名。

次第に深まってゆく物語のテンション。テストの対象は一体どちらか。AIと対峙する自分は果たして人間なのかという、フィリップ・K・ディックを思い起こさせる疑念。地球上のあらゆる情報を収集する神の如き検索エンジンとAI(人工知能)との関係。小品ではあるが、実に印象的な作品として成立している。


「ハドソン川の奇跡」を観た
土曜日は予定がポッカリ空いたので、シネコンで「ハドソン川の奇跡」を鑑賞。観客の入りは良くなかった。不思議な気がする。



実際に起こったUSエアウェイズの不時着水事件を題材にした、クリント・イーストウッド監督作品。この事故が起こった時はアメリカに住んでおり、過去ログを検索すると、当日に「ハドソン川の奇跡」というBlogをアップしている。もう当日から、"Miracle on the Hudson" と呼ばれていたのだ。

但し映画の原題は「Sully」。実際のチェズレイ・サレンバーガー機長の愛称。動詞の「sully」には「人に汚名を着せる」という意味もあって「Sully was sullied」なんてジョークにされたのかもしれないと思わせるダブル・ミーニング・

アメリカの報道では、ハドソン川への不時着を選択して乗客全員を救った沈着冷静で技量の優れたヒーローというのが最初からの扱いで、オバマ大統領の就任披露式典にも招待された。ただ事故調査の過程で、実は空港に戻る事が可能で、乗客全員を無用な危機に晒したのではないかという疑惑が浮上して機長が巻き込まれていた事は全く知らなかった。Wikiによると、確かにフライト・シミュレーターによる解析も行われていたようだ。

映画では若干の脚色があるのかもしれないが、このNTSB公聴会の場面が緊迫感に溢れて実に良い。事故状況を再現したシミュレーションで別のテストパイロット達はラガーディア空港への帰還に成功する。しかし、サレンバーガー機長の冷静な反論が始まる。パイロット達が何度練習したのかを聞いた時の観客のどよめき。そして、35秒の「人的要素」を入れた後のフライト・シミュレーションがまた圧巻。実にカタルシスのあるドラマとして映画的に成立している。

そして公聴会の締めくくりは208秒のCVR(ボイス・レコーダー)の再生。観客もこの「ハドソン川の奇跡」全てを映画で追体験する。素晴らしい勇気と決断、それを支えた操縦士としての技量。まさに奇跡だ。

副操縦士が最後の質問をされて「I would do it in July.」とニヤリと笑うのは、いかにもアメリカ人が好きなジョーク。96分の小品だが爽快に映画は終わる。

主人公トム・ハンクスも、副操縦士役のアーロン・エッカートも実に印象的。FA役も実にリアル。墜落してゆく時の機内の様子も緊迫感を持って捉えられている。

エンド・クレジットを見ていると所々に「Himself」と出て来る。実際の事件に遭遇した本人達が出演しており、最初に救出に向かったフェリーの船長も本人なのだそうである。クレジット最後には、乗員とその当時の乗客が引き上げられた機体の横で「Reunion」をする実際の映像も挿入されており実に興味深い。

そういえばサレンバーガー機長は当時、サンフランシスコ・ベイエリアの小さな市に在住しており、名誉市民になったとか、社内でも話題になったっけ。今もご健在のようでなにより。

「アメリカン・スナイパー」同様に、大変有名な実話を元にしているので観客は結末を知っている。しかし、それでもなお映画がサスペンスとカタルシスを持って成立しているのは脚本と映画の語り口の妙。クリント・イーストウッド監督の素晴らしい仕事。実に面白い映画であった。



「シン・ゴジラ」を観た
「シン・ゴジラ」を観た。



冒頭のタイトルもなんだか昔懐かしい東宝怪獣映画風味。ゴジラの咆哮や背景に流れるテーマ曲が旧作オリジナルなのが、やはりハリウッド物と違う本場日本発。総監督庵野秀明については「ヱヴァンゲリヲン」も観たことがなく作風の知識無し。「風立ちぬ」でとんでもない棒読みの声優をやらかしたのは記憶にある(笑)

怪獣映画は最初に船の沈没など謎の事件が起こるのがお約束だが、本作も冒頭は同じ。しかし映画はその後、首相官邸内部の危機管理にまつわる政治家と高級官僚の駆け引きが緊迫した、一種政治ドラマの如き様相を呈して行く。総理を中心とした、政治家の思惑と透けて見える権力争い、各省庁の縄張り争いや杓子定規の対応は、実にリアル。政治家たちの人物造形もなかなか細かい。モデルになった政治家が伺えるようなキャスティングもw

昭和の怪獣映画では、ゴジラが現れると逃げ惑う群衆の中で、何故か怪獣の名前を知っている男が指さして「ゴジラだ~!」と叫び、すぐに自衛隊のF104が飛来して雨あられとミサイルを発射し、海岸や川岸には戦車がズラリと並んでガンガン大砲を発射する。しかし、実際の世界に本当に異形の怪物が登場したら、そんなすぐに対応できるはずがない。

映画中で政治家と官僚が、自衛隊の出動を何の法規に依るか、安保による米軍の援助の可能性など、真剣にもめる様子も実に興味深い。日本に上陸した禍々しい破壊神ゴジラは、日本を存亡の淵に追いやる全ての危機のシンボリックな表現でもある。

冒頭、ゴジラが鶴見辺りに上陸して川を遡上するシーンには、東日本大震災津波被害の映像が投影されている。現実の映像は時として映画のイマジネーションを超える。スペースシャトル打ち上げが失敗して、青空に流れ星となって散って行く映像は、その後の映画のCGにも影響を与えたし、911のワールドトレードセンター倒壊とその爆風が道路に広がってゆく映像が「クローバーフィールド」に投影されていたように。

ゴジラの進路でモニタリング・ポストの放射線量が上がったり、高圧コンクリート注入車の使用など、福島原発事故もデジャブとして映画の背景に映り込んでいる。

ゴジラ対策に奮闘する官邸の外にデモの映像が映り、ドンガドンガの太鼓とシュプレヒコールが聞こえてくる部分も印象的。「ゴジラを倒せ」という声も一瞬聞こえる気がするが「ゴジラを守れ!」という声も聞こえる。内閣は既に超法規的措置でゴジラ撃退のための自衛隊の防衛出動を決定している。この時点で「ゴジラを倒せ」などとデモするはずがない。自衛隊の武力使用を認めたくない共産党やシールズが、「戦争反対、ゴジラを守れ」とデモをやっているのではと思える皮肉な演出。本当に日本に軍事的な危機的事態が到来しても、「武力行使反対!」、「自衛隊帰れ」とデモする層がきっと出てくるだろうと思えるのもまた現代の日本。

ハリウッド映画ならお約束の突出したヒーローは出てこない。個々の人間ドラマは描かれず、むしろ群集劇として映画は進行する。主役は敢えて言うなら内閣官房副長官の矢口だが、危機一髪で修羅場を走り回るアクションも無いし、感情丸出しにして怒鳴ると、「まず君が落ち着け」と制され、最初は対立するヒロインと心が通じ合ってキスする場面(笑)なんかも皆無。ハリウッドが大好きな場面はまったく無いというのも珍しいが、それでもゴジラ造形のすさまじい迫力もあり、実に手に汗握る映画として印象的に成立している。

災害に慣れた日本人は、とてつもない危機に際し、たとえ突出したリーダーがいなくとも、真面目に粘り強く英知を集めて対応して行くのだというのは、小松左京が「日本沈没」、「復活の日」、「物体O」などで繰り返し描いたテーマだが、この映画の基調低音にも、「日本は何があっても復活する」という明るい意志が流れている。この辺りはゴリゴリの左翼の人が観ると腹が立つところだろう。彼らにとっては今の日本が最低で、自分たちが愚かな人民を領導する未来こそが理想なのだから。

多国籍軍による熱核攻撃を受ける寸前の東京。派閥の年功序列で農林水産大臣になった小物大臣の平泉成が、火中の内閣を押し付けられたボンクラに見えて、最後に開き直り、意外に頑張る演出もなかなか泣かせる。

石原さとみは頑張っているのだろうが、アメリカ人という現実感無くちょっと浮いているか。この役は日本人の誰がやってもおいしい目にはあえず難しい。昭和の怪獣映画にはよく外国人が出てきて、英語のセリフがあるのもお約束であったから、オマージュとしてアメリカ人の女優連れてくればよかったのに。まあ、しかしやたら男ばかりが出てくる映画であるからして、やはり華のある女優が必要なのかね。

さて、ゴジラであるが、ビックリするくらい形態を変えて行くという設定もなかなか興味深い。第二形態は最初に見て、あまりの異様さに、「一体これ何じゃ」と驚愕する(笑) 最終形態になっても、眼が哺乳類とは全く違うウツボの眼で、歴代ゴジラの中でもなかなか怖い。

武蔵小杉から丸子橋を渡る多摩川での自衛隊とゴジラの決戦は、昔のゴジラ対自衛隊を踏襲しながら、CGによって何倍もパワーアップしており圧巻の見所。空中からの引きの鳥瞰画像が多用されるのだが、これも実に禍々しくも不気味。都心に来てからのゴジラは、赤坂、霞が関、新橋、銀座四丁目、東京駅と、狭い範囲でやたら暴れるので東京都心は滅茶苦茶である(笑)

ゴジラの背中から口から尻尾から、禍々しい熱線が空を縦横に駆け巡り、ドローンを落とし、都市を破壊してゆくシーンは、圧巻にして幻想的な美しさをさえ感じさせる実に印象的なシーン。生物というよりも巨大終末兵器。口から火を出すのはゴジラ物のお約束だが今回の熱線が一番破壊的で凄まじい。新幹線や在来線の扱いも、東京駅ならではで盛り上がるところ。

全編を通じて疾走感がありながら、実に重厚な政治ドラマであり、恐ろしい終末モンスター物でもある。大成功作だ。日本発のゴジラだけではなくハリウッド発も含めた全てのゴジラ物の中でも、いや日本のSF映画の歴史上でも、おそらく長く語り継がれる金字塔になるだろう。


「10 クローバーフィールド・レーン」を観た。
「10 クローバーフィールド・レーン」を観た。

「クローバーフィールド」と同じJ・J・エイブラムスの制作であることだけは知っていたが、予備知識は一度映画館で短い予告編を観たのみ。地下のシェルターから逃げようとする女に、外に出たら死んでしまうと太ったオッサンが怒鳴っている部分だけ知っていた。

妙に不穏な雰囲気の導入部から、ヒロインが車で事故に遭遇し、その後、映画は密室監禁のサイコ・スリラー風味に。「あれ? SFじゃないのか」と訝ったが、世界が何時か終末を迎えるという強迫観念に取り憑かれたサイコのデブ男を演じるジョン・グッドマンが実に良く、映画は手に汗握る緊迫感を持って進む。 アメリカ南部にはああいうのがいるよなあ。グッドマンの出演作は今まで殆ど観たことがないが、なかなか巧い俳優だ。

ヒロイン役のメアリー・エリザベス・ウィンステッドは、ロシア舞台の「ダイ・ハード4」に出演していたらしいが確たる記憶無し。しかしこの映画では、どんな状況でも諦めず、知恵と強い意志で状況を切り開いて行くヒロインとして実に魅力的に成立している。

シェルターの外の世界は本当に崩壊したのか、それともそれはヒロインを監禁しようとする異常者の妄想なのか。映画は次第にホラーの風味を増し、最後にはドッカーンと大爆発する。まあSFは、スリラーもホラーも内包することのできるジャンルではあるので、これで破綻なく充分成立している。

104分の短い映画だが、最後まで息が抜けない圧巻の出来。できればまったく予備知識無しに観たほうが、密室心理劇の後にもう一段の爆発があるローラーコースター・ムービーとして楽しめるだろう。 心臓には悪いけどねえ(笑) ヒロインが三叉路で自らの運命を選択するラストも、小気味良く成立している。監督はこれが初長編作となるダン・トラクテンバーグ。

「スポットライト 世紀のスクープ」を観た
連休二日目の土曜日、「スポットライト 世紀のスクープ」を観た。

「ボストン・グローブ」紙が告発したカトリック教会の暗部。小児性愛者の神父達が児童を性的虐待している事をカトリック教会が知りながら隠蔽していたという大スキャンダルを報道した実話に基づくドラマ。トム・マッカーシー監督。本年度アカデミー作品賞、脚本賞受賞。

実に重たいテーマを扱っているのだが、派手ではないものの重厚な演技派が脇役に至るまで揃い、見ごたえある映画に仕上がっている。

ボストン・グローブ紙で「スポットライト」という特集コーナーを率いるデスク役のマイケル・キートンは、昨年度のアカデミー作品賞「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」に続き、作品賞受賞作品にに2年連続主演ということになる。

「スポットライト」チームの熱血記者を演じるマーク・ラファロは、DVDで先日購入した「フォックスキャッチャー」の金メダリストの兄、デイヴ・シュルツだったとは後で調べて気付いた。スティーブ・カレルもそうだったが、実在のモデルがいるので相当特殊メイクなどで印象を変えていたのか、本作と同一人物と思えないほど。新任編集者バロン役のリーヴ・シュレイバーも、何処かで観たことあるようなと思ったら、先週観た「フィフス・ウェーブ」の軍人役。

「ボストン・グローブ」にやってきた新任の編集長が、数年前に一度だけ掲載されたカトリック神父を巡る醜聞について何故もっと調査報道しないのかと疑問を持ったところからドラマが始まる。派手な演出は無く、丹念に事実を追跡してゆく記者たちのドラマは、台詞劇として淡々として描かれるのだが、演技派を揃えた俳優陣には重たい迫力があり、脚本も優れている。2時間8分はあっという間。

成人した虐待被害者を演じる役者たちにも異様な迫力あり。尊敬する聖職者からの性的虐待は、身体的な虐待に留まらず、子供心に持っていた素直な信仰心を根こそぎに粉砕する、魂の虐殺なのだ。「彼らはまだ幸運なほうだ、生きているんだから」という台詞は、精神を病んだり自殺した被害者も多いことを示唆するなんとも悲惨なもの。この辺りは、無宗教の日本人には少し分かりづらいところでもあるのだが。

問題を起こした神父が送られるカトリック内部の療養施設で働き、後に告発者に転じた元神父がカンファレンス・コールで取材チームに語る、神父たちの6%程度が性的倒錯者だという見積もり、聖職者には妻帯を許さず純潔を求め姦淫を厳しく禁止するカトリックの戒律がむしろ神父たちにプレッシャーを与え異常にしているという示唆は、なんとも背筋がひやりとするもの。

ネットでは、「カトリック教会の組織的な闇、ボストンという町の閉鎖性と偽善とタブーが描かれていない」という感想もみかけたが、勿論きちんと描かれている。脚本賞は伊達ではない。ただ全面的に会話劇なので、字幕だけでは主人公たちの微妙な心理の機微や苦悩が伝わって来なかった観客もいるのかもしれない。英語のセリフがある程度聞き取れると随分助けになるのだが。

カトリック教会との秘密裡の示談について頑なに打ち明けなかった弁護士が、かつてボストン・グローブに一度だけ告発リストを送っていたと語る場面。調査を続ける「スポットライト」編集長の母校でも、学校に配属されたカトリック神父に性的虐待の過去があり、それを追求するために母校を訪ねた時の緊迫したシークエンス。

どの場面にも、真実を巡る緊迫した追求の応酬と攻防の虚実が、ボストンという古い街と、そしてカトリックという古い宗教を背景に映り込んでおり、重厚で実にシリアスなドラマとして見事に成立している。ボストンの街並み、自動車やオフィスの内部など、舞台となった2002年当時の雰囲気もよい。DVD出たら買わないと。

何かおかしいと思いながらも、見過ごしたことによって社会から葬ることが出来なかった邪悪。守れたかもしれない子どもたちへの被害。過去に伝えなかった事に対する主人公たちの後悔と苦悩も印象的に描かれる。しかし、ラストシーンとエンドロールは、報道によって社会を変えることができるというポジティブなメッセージを観客に伝えるもの。

世界の一部には異常者やおぞましい犯罪や欺瞞が存在しているのは事実だが、そんな闇は見たくないという人にはこの実録ドラマはむいていないかもしれない。しかし闇を照らす真実の光もまたあるのだと信じる人には、これは観るべき映画だろう。


「オデッセイ」を観た
日曜午後は「オデッセイ」を観た。3Dは上映時間が合わなかったので2D版で。まあどうしても3Dという場面もなかったような。宇宙船での救出場面程度かな。



冒頭に「The Martian」と出て、一瞬スクリーンを間違えたかと思ったが、これが原題。「オデッセイ」は日本の配給会社が勝手につけた題名なんだ。

火星探索ミッションで事故が起こり、マット・デイモン演じる宇宙飛行士マーク・ワトニーがたった一人で火星に取り残されてしまう。その男が、幾多の困難を乗り越えて火星でサバイバルしてゆくSF。火星表面は大気が希薄で恐ろしく低温であるから、宇宙空間でのサバイバルを描いた「ゼロ・グラビティ」にも似ている。

映画の冒頭、火星での嵐で宇宙船が傾いて倒れそうになり、慌てて脱出するというシークェンスがあるが、火星の大気密度は地球の1%以下で、大きな物を動かすような嵐が本当に吹くのだろうかと疑問が。本物の火星探索機が送ってきた画像でも、空に雲などどこにも映って無かった記憶があるが。

後でIMDbで調べると、原作者も火星の嵐部分は不正確だと認めているとの事。やっぱりねえ。地球の大気というのは、宇宙からも雲が観測できるし、実に濃密だが。

芋を栽培するだけで生き延びられるかにも若干疑問があったし、ケチャップ無しでアメリカ人がポテト食えるのかも実に疑問(笑) しかし一番不思議に思ったのは酸素はどうしているのかということ。火星の大気にはほとんど含まれていないはずだが、二酸化炭素から太陽光発電のエネルギーで分離しているのだろうか。

もっとも、酸素が無くて死んでしまいましたでは映画にならない。主人公の英知や、生き延びるという強い意志によって、次々に困難を克服してゆかなくては。そして実際のところ、全体を通じて、なかなか感動的なサバイバル物語となっている。

衛星画像から火星基地で何らかの活動の痕跡があり、取り残された宇宙飛行士が生きているのではないかと気付いたNASA内でのやり取り。既に地球へ帰還しつつある他のクルーに知らせるべきかどうかの葛藤。船内のクルー達と火星に残されたワトニーとの会話、主人公を救出できる奇策を呈示された時のNASA内部と宇宙船クルーの議論や判断など、脇の役者達もなかなか達者で人間ドラマの部分も感動とともにきちんと成立している。リドリー・スコット監督の熟達の技。

機能ダウンした昔の火星探査機を掘り出して地球との交信に使うというアイデアは、なかなかよかった。地球上に火星基地と同じモジュールがあり、専門家があれこれ試行錯誤して宇宙船に指示を出すというのは「アポロ13」にも描かれたが、実際の宇宙開発をそのままなぞっている。

機体設計製造の責任者である中国系エンジニアは、なんだか大相撲の逸ノ城によく似ている。モンゴル系かな(笑) 中国が救出作戦に協力するという設定は他の映画でもどこかで観た気がするが、随分と好意的に描いており、やはりチャイナ・マネーが制作に入っているからではと思わせるところ。

変わった趣味の船長が、70年代のポップスやディスコ・ナンバーの音源を大量にPCに入れて火星に持ち込んでいた設定で、懐かしの名曲がずっと背景で流れるのも面白い効果を生んでいる。デヴィッド・ボウイの「Starman」は実に印象的。

次々と襲いかかるトラブルをなんとか切り抜け、最後に辿り着いたラストもカタルシスあり成功しているのだが、「地球に戻ってきた」という魂を揺さぶられるような歓喜は、「ゼロ・グラビティ」のほうが印象的だった。まあ火星は遠いから、助かったとはいえ地球への帰還に時間がかかり、ちょっとドラマとして間延びしてしまう(笑)


「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」を観た
先週水曜の祝日、遅ればせながら「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」を観た。2Dでよかったのだが満席で、空きのあった3Dを選択。J・J・エイブラムスの悪癖として、最初こそ派手だが最後が失速するのではと思っていたが杞憂に終わり、圧倒的な面白さ。悪かった、J・J(笑)



もちろん面白さの背景には、エピソードIV、V、VIを昔から何度も観ているからという面あり。劇場にはまっったく前作見てないような若者達もおり、まあ、流行る映画というのは普段映画見ない層が来るから仕方ないのだが、多分そんな連中の倍は面白かったなあ。年を取るのも捨てたもんではないw

もっとも、ルーカスのオリジナル「スター・ウォーズ」そのものは、ストーリーとしては単調。派生したノベライゼーションもあるが、好事家しか読んでないのでは。私も読んだこと無し。SF的なアイデアを映像として鮮やかに具現化したところに、映画としての素晴らしい価値があったのだ。

「IV」の冒頭、スター・デストロイヤーがゴゴゴと現れて、これはいったいどれだけ大きいのだと感じるファーストシーンには、当時誰もが度肝を抜かれたはず。コンピュータ制御のキャメラによるミニチュア撮影。惑星タトゥィーンの空に浮かぶ二つの太陽も、これぞSFというコロンブスの卵的ショット。ライトセーバーも、何十年と生き延びた映像的なギミック。振り回すと、ブーン・ブーンと空電の音がするのも、小説ではできない映画ならではの描写。ミレニアム・ファルコンがハイパー・スペースに入る時、星々が光る流れる線となって一瞬に後ろに去る描写も素晴らしかった。旧作は、ルーカスの天才的イマジネーションが詰め込まれている印象的な映像の連続。もっとも俳優の演出は大したことがなかったけど(笑)

で、今回の「フォースの覚醒」はルーカスが「スター・ウォーズ」の権利をディズニーに売却して、初めてルーカスの手を離れた作品。しかし新たに素晴らしく魅力的な主人公たちを得て、別のサーガの始まりとして、実に印象的に旧作からのバトンが渡されている。



(ここから先は、強烈なネタバレは無いはずだが、一部含む可能性あり、気になる人は読まないほうがよろし)





ハリソン・フォード、キャリー・フィッシャー、マーク・ハミルが存命の今でなければ、サーガを次に受け継ぐシリーズは撮る事ができなかっただろう。時を経て、新たな命を得て、あるいは所々鏡像のように反転されて繰り返されるエピソードIVのモチーフ。運命の輪が世代を超えて受け継がれて行く不思議。

何時もながらのタイトルが出てくるのだが、最初の一行でびっくり。そして予告編にある人物が登場していなかった疑問が氷解。まあ確かに「VI」では皇帝もダースベイダーも死に、帝国は負けましたとハッピーエンドだったのだから、これくらいひっくり返さないと物語が進まない。そしてお約束のスター・デストロイヤーの登場。懐かしくも新しい。

新たな主人公、レイとフィンの人物造形と演出も実に印象的。大勢現れてすぐにやられるだけの雑魚であったストーム・トゥルーパーからの反逆者が主人公というのも感慨深いし、「IV」のルーク・スカイウォーカーに当たる役が今度は女性というのも面白い。レイ役の女優は、強く、真っすぐ純粋で、しかしどこか儚い脆さも感じさせて実に素晴らしい。フィン役は若い頃のシドニー・ポワティエにちょっと似ているなあ。

帝国軍に追われて逃げ惑うレイとフィンが爆発に巻き込まれ、失神したフィンにレイが声を掛けると、ハッと目を覚ましたフィンが自分の事より「Are you OK?」とレイに声をかける。「Stop taking my hand!」とフィンの手を振り払っていたレイが思わずフィンに手を差し伸べる。一瞬の演出で、彼らの心が通い合った事を描き、こいつらはいい奴だなと観客に判らせ、主人公たちを好きにさせる実に印象的なシーン。

新たな主人公たちは、後から出て来た旧作の登場人物と絡んでもまったく違和感が無い。実に印象的に人物造形のエッジが立っているのだった。テンポの早い軽妙なユーモア溢れる会話もよい。新たなドロイドBB-8も、単純な形なのだが、何を言いたいか、ちゃんと分かるというのも、やはりディズニーの演出力では。後半には、C-3POもR2-D2も出て来て実に懐かしい。

終盤、新しい主人公たちの危機を救うために現れる、ミレニアム・ファルコンを操るチューバッカにも感激。そう、ウーキーは心優しく、誇り高く、そして義理堅い種族。

カイロ・レンは、若く未熟なダース・ベイダー崇拝者という変わった設定。自分の思う通りに行かないと激怒してライトセーバーで周りを壊して当たり散らすのが実に滑稽で面白い。後半、フォースの力に目覚めたレイとの対決で「お前には教師が必要だ」と上から目線で言いながら、必死にライトサーバーを振り回す素人のレイにほとんどやられかけ、「お前弱いやんけ」と感じさせるお粗末も、ある意味実に魅力的な人物造形だよなあ(笑) おそらくこれから成長してゆくのだろうが。

カイロ・レンのお面だけはあまり感心しなかった。暗い画面も多く顔の下半分の造形が印象に残らない。あれはデザイナーが失敗したのでは。まあ、世代を超えて、世界中誰でも知っているダース・ベイダーのお面があまりにも凄すぎたのだけど。

そして運命の輪が更に大きく回転しだすことを暗示する、空撮による荒野での壮大なラストシーン。新たな物語の始まりに身震いがする。いずれにせよ素晴らしい成功作だ。旧作をほぼリアルタイムで観た者としては感涙する。けなす奴はあっちへ行け、シッシッ!(笑)


「007 スペクター」を観た。
「007 スペクター」を観た。



最初のメキシコシティ「死者の日」のシーン。延々とワンショットで撮られたようなカメラワークが印象的。特に屋根の上を動いて行くボンドを上空から俯瞰しつつ追ってゆく映像は圧巻。

ダニエル・クレイグが主演になってからのボンド・シリーズは、ダークでシリアスなトーンが妙なリアリティを醸しだしているのだが、本作は若干昔のシリーズの雰囲気が復活した感あり。ダニエル・クレイグ・シリーズはジェームス・ボンドが「007」になってゆく過程を追体験するような仕掛けになっており、その点本作で007が成熟して完成したということかもしれない。素晴らしい車と酒と女が出て来て、超人的なスパイが世界中を巡る男の童話的世界。

疾走感あふれるスリルとアクション満載で、148分もあっという間。「スペクター」は、今までのボンドに襲い掛かった敵全ての黒幕だという事が台詞で説明されるだけで、その悪の巨大さというものがあまり感じられないのがちょっと残念。「君が今まで戦ってきた敵の黒幕は全て私だったのだよ」と言葉で言われただけでは、「はあ、そうですか」と素直に納得する訳にはゆかないのだけれども。「007/スカイフォール」にも何か伏線があったのか、今度BR見直さないと。

血も逆流するような裏切りなどの大どんでん返しが無いことも影響しているのかもしれないが、悪漢役もちょっと迫力にかける印象も。モロッコにわざわざ建てた秘密基地が、ボンドのスパイ小道具ひとつで壊滅するというのもちょっと間抜けな感じがあるよなあ(笑)

ヒロイン役は、個人的にはあまり感情移入できなかったかな。しかしダニエル・クレイグは相変わらず格好良い。まるで本作でシリーズ終了かのようなエンディングだが、エンドロールの最後にはいつもと同じ「James Bond will returu」と出る。ダニエル・クレイグもあと一作契約が残ってるとどこかの記事で読んだが。

しかし、全体として大変面白いスパイ・アクション物としてきちんと成立している。DVD出たら買うな。


「日本のいちばん長い日」DVDを観た
土曜日は、大相撲をTVで観た後、先日Amazonから届いていた「日本のいちばん長い日」をチェック。

今年リメイクされ劇場公開されたそうだが、これは1967年に岡本喜八が監督したオリジナルの白黒作品。



昭和20年8月、広島長崎への原爆投下と、和平交渉仲介に望みを繋いでいたソ連の参戦と満州侵略。大日本帝国の命運がまさに尽きようとしていた頃、ポツダム宣言受諾と終戦の詔勅を巡り、徹底抗戦を叫ぶ陸軍の強行派は宮城を占拠したクーデター未遂事件を起こす。日本敗戦の8月15日に何が起こったかを巡る作品。

白黒の画面は、シャープな陰影がはっきりとしており、汗だくになって会議を繰り返し、せめぎ合う人々を包み込むうだるような暑さまで画面に捕らえられている。

御前会議や玉音放送の場面でも、「お上」「天皇陛下」をまったく映さない手法は、現人神として天皇が神格化された当時の雰囲気を反映した極めて印象的な映画的手法。リメイクでは本木雅弘が天皇陛下を演じているというが、ちゃんと成立していたのかな。

そしてクーデターの中枢となる、陸軍省軍務課将校、畑中少佐を演じる黒沢年男が実に印象的。神国不敗の伝統を純粋に信じ、本土決戦に持ち込めばまだ戦える、無条件降伏は亡国の道である信じている若きエリート軍人。玉音放送を止めるための決起を実行すべく上官の説得に駆けまわり、どうしても納得しない近衛師団師団長を殺害。ニセの師団長命令を発行してまで宮城占領を実行に移す。この純粋と狂気の狭間を行き来する青年像を、エッジの立った演技で見事に成立させている。

若き軍人の信念と狂気は、昔、「タップス」でも描かれていた通り東西共通のものあり。

鈴木貫太郎の笠智衆、米内海軍大臣の山村聰、阿南陸軍大臣の三船敏郎など東宝のオールスターキャストが実に重厚。群衆以外で登場する女優は、新珠三千代のみというのも逆に新鮮。戦争を描いた最近の映画やTVドラマでは、綺麗な女優が妻や母として出て来て、主人公と涙の別れの愁嘆場を演じるのがお約束になっているようだが、当時の極端な男尊女卑や軍国主義に染められた戦時日本のリアリズムとして言うなら、そんな場面はおそらく無かっただろう。

岡本喜八は全力投球してないという話もあるようだが、それでも実に印象的かつ重厚なドラマとして成立している。昔の日本映画は実力があったのだと感じさせる名作。今年度のリメイクはもう見なくてもよいかな。

 
「ミッション:インポッシブル ローグ・ネイション」を観た。
「ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション」を観た。



オープニングに息詰まる短いシーケンスがあって、指令を聞く場面になるというのは、昔のTVシリーズ「スパイ大作戦」を踏襲。サスペンスをテンポよく細かく叩きつけるように積み上げて行き、頻繁なドンデン返しで塗り重ねて行くスタイルは、完全に確立している。ミッションを聞く場面や顔マスクをベリベリ剥がす場面はお約束で、「おお、やってるやってる」と懐かしくも面白かった。

シリーズ5作になるのだそうだが、確固たる主役と確立したスタイルがあると、後は悪役と女スパイがエッジ効いて立ち上がっているとほぼ映画としては成立する。ショーン・ハリスは、あまりフック無いものの悪役としては一応ちゃんと成立している。女諜報員は実に印象的。レベッカ・ファーガソンというのか。映画の冒頭、レコード店に偽装した連絡ポイントの女店員がハッとする美人で、これがヒロインかと思ったらいきなり銃で打たれて退場。贅沢に使い捨てしますな(笑)

映画の序盤、CIAと縄張りを争う公聴会の場面で「IMF」としきりに出てくるので、国際通貨基金がなんでそんな荒いオペレーションをやってるのかと疑問に思ったが、この映画ではイーサン・ハントの属する秘密組織が「Impossible Mission Force」と言うのだった。シリーズ物は時間空くと用語とか忘れてしまう(笑)

全体に演出も手慣れており、バイクの追跡シーンなども呆気にとられるほどテンポが早く飽きさせない。ローラー・コースターのようなスリルと最後のカタルシスを十分楽しんだ。

シリーズではやはり、ブライアン・デ・パルマが監督した第一作の、「ミッション:インポッシブル」が一番記憶に残る。TVシリーズの主人公であるジム・フェルプスがスパイとしての惨めな老残を晒し、映画シリーズの主役がイーサン・ハントへとバトン・タッチされる事を宣言した、実にアイコニックな作品。



「マッドマックス 怒りのデス・ロード(MAD MAX: FURY ROAD)」を観た
6月5日の日曜、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を観賞。もともと前日の土曜日に行くつもりだったが、金曜の深夜に「チケットweb松竹」で歌舞伎座七月大歌舞伎の土曜夜の部に一席だけ「戻り」発見。急遽ゲットして観に行ったので、日曜に順延。

シネコン全体は随分と混んでるのだが、この映画のスクリーンは上映10分前に入場するとガラガラ。大丈夫かと思ったが上映開始が近付くにつれて続々観客が入場。しかし半分も埋まってなかったな。twitterのTLでは大人気だったのだが。



文明が崩壊した近未来社会を舞台にするのは「マッドマックス2」 同様。私自身は「2」を劇場でリアルタイムに観ているので、確かに更にパワーアップしているものの映像としてのコンセプトは目新しいものではない。しかし砂漠を爆走するカー・チェイスは圧巻。「2」の時も恐ろしく過酷な場面の連続で、スタントマンが事故で2名死んだという話があったが、目眩がするほどのスピードでローラーコースターの如く展開するアクションの連続にはやはり息を呑む。無駄な説明は無く、登場人物達の会話も必要最小限。映像だけで映画の大部分の世界観が見事に描かれている。

叩きつけるような映像の繰り返しでストーリーが展開する。プロットは単純ではあるのだが、あまりの疾走感に終了時には頭が麻痺して疲れきった感あり。しかし上映時間は2時間。3時間分くらいの情報量が2時間に詰め込まれている、一種のトリップ映画だ。ホドロフスキーは「DUNE」で「観るドラッグを作りたい」と言ったが、ある意味この映画はそれに成功している。

ただ個人的には、塩湖を超える160日の旅に出る女達とマックスが別れた所で映画が終わったほうが、叙情を残したエンディングになったのではと思うけれどね。勿論それでは分かりやすいハッピーエンドにならず、興行的には困るのだろうが、本作は、最後がちょっとご都合主義な感じも。

フュリオサ役のシャリーズ・セロンは、「モンスター」も呆気に取られたが本作も素晴らしい。マックス役のトム・ハーディーは、救えなかった者達の記憶に悩まされるトラウマ描写など、スーパーヒーローではなく、人間臭い部分が描かれてなかなか印象的。ただ、メル・ギブソンの後継マックスにしては、眼差しが優し過ぎるかな。「2」の印象的なラスト、荒野に佇むメル・ギブソンの眼は、奥深くも鋭い、まるで人間には理解できない鷹のような眼だった。

アンプと山のようなスピーカーを積んで、火炎放射するギターを弾きまくる男は、実にサイケデリックでイカれ具合が最高。その他の登場人物も実にエッジが立っている。

Immortan Joeの名前には、Immortal(不死)が投影されているが、シャリーズ・セロンの演じるFuriosaは、原題の「Fury Road」と関連がある。この物語の主人公は、フリュオサと彼女が救おうとした女達であり、マッドマックスは狂言回しに過ぎないのかもしれない。なにしろ最初の30分ばかりのマックスは、「血液袋」として車の前に縛られているだけだものなあ(笑)

IMDbのトリビア読むと、今回のマックスは前シリーズに出たブーメラン投げる野生児が成人した姿だというファンの説があるらしい。そういえば前作にも出た手回しオルゴールが映っていた。だとすると最初に名前を聞かれた時に「無い」というのは本当で、最後にフュリオサに名前を告げるのは、彼がたったひとつ覚えているあの男の名前だったという事になるのかもしれない。






「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」を観た
先週の休暇で行ったUAのNRT-HML。機体は古いB-747-400だが二階席は静かでよろしい。フルフラットになるシートも結構。

一度劇場でも観た「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)<Birdman: Or (The Unexpected Virtue of Ignorance)>」がオン・デマンドのリストにあったので早速観賞。



映画「バードマン」のスーパーヒーロー役で大スターになったが、その後でヒット作に恵まれず没落した初老の俳優リーガンをマイケル・キートンが演じる。勿論ここにはキートンが主演した「バットマン」が皮肉にも投影されている。家庭も崩壊し失意のリーガンは再起をかけてブロードウェーで自ら企画・演出した舞台劇の主役を演じようとしている。

映画冒頭、楽屋で空中浮揚するショットで映画は観客に目眩のような混乱を与える。執拗にワンショットで繋ぐ(と見える)カメラワークが、楽屋の登場人物を回り込む際、後ろの鏡に映り込まない。丹念にCGも使って作られた普通ではない映像。

狭い劇場ビル内部を胎内潜りのように縦横無尽に蛇行しながら、執拗に人物を追い続けるワンショット撮影。劇中劇を中心に、演技と素顔、男と女、父親と娘、映画と舞台、栄光と挫折の虚実を、時空を奇妙に超えて描き出す。どのショットにも独特の緊張感が溢れる。

キリキリと不穏な感情を掻き立てるような、乾いたドラム・ソロがまたよい。しかし映画のストーリーが進むにつれ、自由自在に音楽も弾み始める。

ナオミ・ワッツは、「マルホランド・ドライブ」を思い出す好演。あの映画も入れ子構造になった劇中の演技シーンが素晴らしかった。この人は売れない女優役やると本当に巧いな(笑)

基調低音として流れているのは、主人公を静かに蝕み、呑みこもうとしている狂気。現実と妄想との境目がやがて溶け崩れて行き、リーガンの強迫観念が具現化したバードマンが現れる場面で映画のテンションも頂点に。

ラストシーンについては、いかようにも解釈ができるだろうが、彼はついに全ての苦悩から解放され真の「鳥」になった。彼の娘はそれを喜びと共に感じ取ったということなのだろう。たとえ、物理的な彼の身体がどこに横たわっていようと。

副題の「The Unexpected Virtue of Ignorance」は、舞台批評家の女性が書いた舞台批評記事の見出し。「無知なのが予想外に良かった」という事だと思うけれども、「奇跡」とまで訳するのはどうかな。





「ホドロフスキーのDUNE」 DVD
「ホドロフスキーのDUNE」 。 DVDは届いてしばらく観る時間なかったのだが、土曜日の昼に視聴。

カルト映画「エル・トポ」で有名な、アレハンドロ・ホドロフスキー監督は、フランク・ハーバートのSF大河小説「デューン」の映画化を構想。1975年に制作プロジェクトは進行したが、配給会社が決まらず結局制作できないまま幻の作品に。本作はホドロフスキー自身と周囲の関係者が、幻に終わったホドロフスキー版「DUNE」の制作過程について語るというドキュメンタリー。

映画は総合芸術とも言われるが、漫画や小説が家内制手工業のようなものだとしたら、大工場での受注生産品に近い。しかし完成しなかった映画は世に出なかった訳で、それは映画とは呼べないだろう。そう考えていたが、この「DUNE」を観てだいぶ考えが変わった。

ホドロフスキーは、映画監督だけではなく、タロット占いやパントマイムも手掛ける、総合芸術家、あるいはパフォーマーでもあり、ちょっと宗教かかったところもある芸術家。この映画の製作に集まった仲間を「魂の戦士」と呼ぶ。映画の画コンテを作り、デザインを決定し、キャスティングを行って行くその工程そのものが魂の彷徨であり、まさに一種の社会的なパフォーミングアートを見るかのよう。

宇宙皇帝には画家のサルバトール・ダリ、ハルコネン男爵には映画監督オーソン・ウェルズを起用しようという奇抜な発想も凄い。ミック・ジャガーにもパーティーで出会い出演を承諾させている。当時はネットもメールも無いから大変なんだとホドロフスキーは語る。ダリを捕まえるために、パリの定宿であったホテルのレストランに乗りこんで行き、取り巻きに囲まれたダリに直談判する。ダリが相手を試す即興の質問を切り抜けると、「バルセロナに来たまえ」とダリは去る。この辺りの語りは、まるでホドロフスキー自身が謎を追う映画の主人公を演じているかのよう。

メカデザインに起用したSF画家のクリス・フォス、キャラクター・デザインのメビウス、城のデザインにH・R・ギーガーを起用するなど、後に他の映画でも活躍した稀有な才能が既にこの映画の企画段階で参集している。

観る人間の意識を変容させる「観るドラッグ」を作るのだというホドロフスキーの誇大妄想ともいえる一大プロジェクトは、メカやキャラクタ、建物のデザイン、画コンテなどが収載された分厚いデータブックを完成させるところまでいったが、ホドロフスキーに映画を制作させようという配給会社は現れなかった。

しかし膨大なイメージが掲載されたこのデータ・ブックは出資を募るため多くの映画会社に送付されており、その後に制作されたSF映画には、明らかにこのホドロフスキー版「DUNE」のイメージを拝借したものが数多く見られる。このDVDではその比較がされており、これが実に興味深い。

普通に人々の記憶にあるのは、ディノ・デ・ローレンティスがプロデュースし、デヴィッド・リンチ監督した1984年制作の「デューン/砂の惑星」だろう。興業的には大コケにコケたのだが、実に奇妙なディテイルに凝った映画。

個人的に不思議なテイストが妙に印象に残っておりDVDも持っているが、今回この「ホドロフスキーのDUNE」を観て、そのかなりの部分をホドロフスキーのデータブックから拝借していることを発見。スティングを配役したり、TOTOを音楽で起用したりしたのも、ホドロフスキーの着想に影響されたのだなと感じられるのだった。しかし当時この映画が完成されていたら、どうなってただろうなあ。

「トゥモローランド」を観た
先週土曜日「トゥモローランド」を観た。まだ公開間もないので、結構観客が入っている。現題はそのまま「Tomorrowland」。



最初は一種ジュブナイルSFのようにも思えるが、1964年のNY万国博覧会から現代、そして時空を超えたトゥモローランドへと舞台は変わり、最終的にはユートピアとディストピアが交錯する文明論的展開に。

ディズニーが制作しただけあって、エロもバイオレンスも無く、CGやアクションシーンも破綻なく綺麗にできている。最初は、なかなか謎が明かされないので若干テンポがスローに思えるが、ジョージ・クルーニーが本気出した辺りから場面転換のテンポはめまぐるしくなり、物語のテンションも上がる。随所に観客を笑わせるシーンも挿入されており、130分はアッという間。なかなか良くできたアトラクションを体験したという気分にさせる。

映画の序盤、ブリット・ロバートソン演じる主人公のケイシー・ニュートンが、バッジに触れて次元スリップし迷い込んだ未来社会トゥモローランドでの目眩がするような場面が素晴らしい。

天空高くそびえたつ未来的建築、空を縦横に移動する交通網、恒星間飛行に飛び立って行く市民たちと、宇宙港から天空遥かに上昇してゆくロケット。空想科学小説を読んで、あんな明るい未来がいずれはやって来ると皆が信じていた「明日の世界」が見事に眼前に再現される。星の彼方を夢見た少女の眼前に突然に現れた未来世界に対する喜びと恍惚をブリット・ロバートソンが実に印象的に演じる。

ただ、おそらくもうそんな未来が実現する事はないだろうなあ。少なくとも私が生きている間には。映画のせいではないが、この点は実に悲しい(笑)

トゥモローランドから来た少女ロボット、アテナを演じるラフィー・キャシディも瑞々しい輝きが素晴らしい。そして物語のラスト、アテナが機能を停止する時が泣かせる。

フランク・ウォーカーの胸に去来する、少年だった頃の自分とロボット少女アテナとの実らなかった悲恋。 自分はすっかりオッサンになったのに、アテナはあの時のまま。その彼女が自分に抱かれて機能停止しようといている。「ロボットだから笑えないんだ」と言われたアテナは実は内心深く傷ついていたのだが、「Because you're not funny」と最後の瞬間にジョークを言う。この辺りがよかった。

そしてディズニーらしい明るい未来を感じさせるハッピーエンド。まったく予備知識無しに観たが、なかなか印象的な作品。


ニール・ブロムカンプ監督の新作「チャッピー」


「第9地区」、ニール・ブロムカンプ監督の新作「チャッピー」を観た。舞台は近未来の荒廃した南アメリカのヨハネスブルク。続発する犯罪に手を焼いた警察本部は治安維持のために武装アンドロイドを導入。

しかし、この警察アンドロイドの開発者が、自ら開発したAI(人工知能)を廃棄寸前のアンドロイドにインストールした事からトラブルが始まる。開発者が襲われ、まだAIがインストールされたばかりで幼児のような警察アンドロイドが、ギャングの手に落ちた事から始まるドタバタ。

ロボットが自意識を持つという設定は、スピルバーグの「A.I.」でも扱われたようにSFの古典的なアイデア。迂闊に扱うと陳腐なストーリーになるが、プロムカンプは、状況の設定と場面のディテイルを作り込むのが実に上手い。

世界有数の犯罪都市ヨハネスブルクに生きるどうしようもない麻薬売人のクズ達の手に落ち、幼児のような状態から次第に物事を学んで行くアンドロイドの描写は克明にして印象的。一味の女にも母性があり、自我の芽生え始めたロボットを子供のように可愛がるというのも妙にリアル。

ニンジャとヨーランディの犯罪者カップルは、俳優が本業ではないそうだが、なかなか印象的に成立している。

まだ何も分からない子供のごとき状態のアンドロイドが、犯罪地帯に放り出され、悪漢どもにメタメタにされるという「The first day in school」のシーケンスは、実に馬鹿馬鹿しくも純真なロボットへの深い同情を誘うもの。

ワル独特のしゃべり方やマッチョ歩き、射撃をおずおずと練習してゆくロボットは、まるでコメディ。「あいつはダッドの車を盗んだ悪い奴だ」と騙されて高級車強盗を馬鹿正直に繰り返す場面もまさに戯画的なコメディとして成立している。

そしてゲラゲラ笑いながらアンドロイドの引き起こすドタバタを追ううちに観客の胸に去来するのは、人間を人間たらしめる自我とは何か、正義とは何かという問い。そして、造物主と被造物との関係や、善と悪を巡る形而上学的な問いまでが場面の背景には映り込んでいる。この辺りは、聖書の予備知識があると無いではだいぶ印象が違うか。

チャッピーの開発者のライバルである科学者をヒュー・ジャックマンが悪役として演じるのだが、武装ロボットをある意味狂気に駆られて操る姿は「リアル・スティール」の陰画的なパロディだ。「チャッピー」は実際の俳優の演技をモーション・キャプチャーしてCGで補正したのだろうが、なかなかよく出来ている。

「第9地区」ももう一度観直すかな。


「GODZILLA ゴジラ 2014」 ブルーレイ
Amazonで購入した、「GODZILLA ゴジラ 2014」ブルーレイが届いた。

映画館で観た時の感想は過去ログに書いたが、事実考証に目くじらたてると、随所に突っ込みどころ多すぎ。原発事故起こした日本の街の名が「ジャンジラ」て(笑)

今回ブルーレイで観てもその辺りの印象は同じ。怪獣が主役であって、俳優の演技も演出もペラペラと薄いのだが、ゴジラともうひとつの怪獣、MUTOの造形はやはり良く出来ており、これは圧巻。

特典映像では、過去の南太平洋での水爆実験がゴジラを倒すためのものであったという、「モナーク・プロジェクト」の紹介ビデオが、フェイク独特の味があって、実に興味深い。本編にも、もっと入れればよかったのになあ。ゴジラが海に去って行くラストは明らかに次回作を予期しているのだが、いつ頃制作されるのだろうか。

「アメリカン・スナイパー」を観た。
先週末、「アメリカン・スナイパー」を観た。



ネットでチケットを取ると1,100円と安い。座席も何時になく埋まっている。映画の割引デイなのだそうだが、1,100円で混んだ場所で観るのなら普通料金で空いた場所のほうが良いなあ。

主人公は、イラク戦争に派遣された海軍特殊部隊シールズの射撃手。湾岸戦争の頃、呑気に隊列を組んでクウェートに進軍していたイラクの戦車部隊は、米軍の空からの徹底的な空対地攻撃であっという間に壊滅したが、民家に潜むテロリストを掃討してゆくという殲滅戦では米軍のハイテク兵器は効果が無い。地道に歩兵が展開して虱潰しに敵を排除してゆく血みどろの戦い。

映画は、ふとした事から愛国心に目覚め、射撃手としての才能が開花した主人公の、派遣された戦場と帰国した母国での生活を交互に丹念に追う。

平穏でのどかな米南部での幸せな家庭生活と、砂埃舞うイラクでの血みどろの市街戦。神の眼の如きライフル・スコープから標的に死を与える神業の如き射撃と、扉を蹴破って撃ち合う血腥い掃討戦。画面は何度も転換しながら、静かに戦場の狂気に取り憑かれて行く主人公を捉える。「アメリカの正義」が中東で増幅させてゆく憎悪。

スコープに映る女と少年が、武器を隠し持っているのなら撃たねばならない。しかしまだ武器は見えない。指示を求めた上官は淡々と無線で「Your Call(お前の判断で撃て)」と伝える。生殺与奪を全て任されたスナイパーにのしかかる恐ろしいプレッシャー。PTSDにかかるのも納得だ。

クリス・カイルを演じるブラッドリー・クーパーは、根が善良で呑気な愛国的テキサス男が、戦場に取り憑かれPTSDへと陥って行く様子を克明に演じており、実に印象的な出来。奥さん役シエナ・ミラーもよい。敵と戦う戦場でも携帯電話で家族と話ができる現代の戦争を描いた側面も実に興味深い。

事実に基づく映画だが、映画のラストまで事実をなぞっているとは正直なところ思わなかった。アカデミー賞の後で報道があったが、実在のクリス・カイルはアメリカ帰国後、自らと同じくPTSDに苦しむイラク帰還兵を助けようとする活動の中で、その帰還兵に撃たれて亡くなっている。

クリント・イーストウッド監督が、目の前にドンと投げ出してみせた、冷たく重い現実。最後まで無音のエンドロールがまた効いている。重苦しい気分で映画館を出ると、帰りは土砂降りの冷たい雨。




ミッキーロークの「レスラー」と、「1964年のジャイアント馬場」
「1964年のジャイアント馬場」を読んで、そこに描かれたアメリカン・プロレス全盛期の姿から思い出したのは、以前アメリカで買ったDVD、ミッキー・ロークの「Wrestler」。

向こうで購入したDVDが見当たらないので、Amazonで「レスラー」を再度発注。

かつてはプロレスの聖地、マディソン・スクェア・ガーデンでも試合をするほどの人気だったが、今は没落したレスラー、ランディー「ザ・ラム」を、ミッキー・ロークが演じる。レスラーとしては盛りをとうに過ぎ、使い続けたステロイドの副作用で心臓発作まで起こした老いた無骨なレスラーの手からこぼれおちてゆく幸せ。ミッキー・ローク自身が人気俳優から転落した過去と重ねなりあう映画の余韻。

うらぶれた興行会場の控室で、出番前のレスラー達は過去の有名レスラー、ランディに敬意を払って暖かく迎える。それぞれの対戦相手と親しく試合の段取りを打ち合わせするシーンも実によい。

そしてありえたかもしれない幸せに背を向け、命を賭した最後のリングに上がるランディー。明らかに心臓に変調をきたしたランディーを見かねて、相手は「早く俺をフォールしろ」と囁く。しかしそれを聞かず、栄光に輝いた過去の必殺技を決めるべく、苦痛と恍惚の待つコーナーポストに登って行くランディー「ザ・ラム」。実に印象的なラスト。

「ベイマックス」は「カラスヤサトシ」だ。
先週末に、「ベイマックス」を観た。



日本ではあまり有名でない「Big Hero 6」というマーベル・コミックスのアメコミが原作なんだそうだが、さすがにディズニーだけあって、万人受けする手堅いアニメーションに仕上がっている。

アメリカの作品で日系少年が主人公というのは珍しいが、舞台となるのも「サンフランソーキョー」という、San Franciscoと東京を巧みにモンタージュした架空都市。山手線界隈のようなシーンや東京タワーの如きオブジェ。トランスアメリカビルディングやベイブリッジ、ゴールデンゲイトブリッジなども進化した形で映りこんでいる。

主人公の兄、タダシの顔は、なんだか中村勘九郎に似ている。顎の部分ねw 

ベイマックスの動きはペンギンを模してあるそうなのだが、なかなかユーモラスであり、中盤からは付属装備を付けてパワーアップして大活躍。最後のホロリとするラストまで、物語をしっかりと引っ張る力持って成立していた。

このベイマックスの姿形は、何かに似ていると思っていたが、最後のほうで思い出した、カラスヤサトシだ(笑)





「ゴーン・ガール」を観た
日曜日に、「ゴーン・ガール」を観た。

デヴィッド・フィンチャー監督作品。この監督の作品では「ドラゴン・タトゥーの女」や「ソーシャル・ネットワーク」もよかった。時制をめまぐるしく変えながらも緊張感を持って物語を描くのが実に上手い。

子供の頃から母親が書いた本で「Amazing Amy」として描かれ、全米に名前が知られる人気者だったエイミーは、同じライター業の男性と結婚する。しかし夫が不況で失業。義母の病気看病もあり、二人は夫の故郷に移り住むことに。

5年目の結婚記念日の朝、夫の留守中にエイミーは姿を消す。室内には争った後と大量の血痕。警察は夫を疑い、うまく状況をコントロールできない夫の妻殺し疑惑をメディアが大々的に報じ始める。

前半部分、観客は一種「神の視点」から、妻が自分の過去日記を読みあげるシーンを見せられ、この結婚生活の過去、随所で起こり始めた亀裂や不協和音を追体験することになる。これは結局のところミス・ダイレクションで、映画的な文法としては若干フェアではないのだが、しかし後半のどんでん返しの効果を実に高めている。

「世の中、怖い女もいるものだなあ」という、単純なサイコ・スリラーとして観ても楽しめるが、男と女の根源的なすれ違いを描いたストーリーとして捉えると、もっと怖くなる(笑)

常に理想の便利な女を求める男の、身勝手で呑気な幻想を凍りつかせる「アメイジング・エイミー」。演じるロザムンド・パイクは実に印象的。ベン・アフレックは、妻の真実を迂闊にも知らず、状況にただ翻弄されてゆく「naive」な男としてきちんと成立している。

When I think of my wife, I always think of the back of her head. I picture cracking her lovely skull, unspooling her brain, trying to get answers. The primal questions of a marriage: What are you thinking? How are you feeling? What have we done to each other? What will we do?





ベン・アフレックのモノローグに続いてベッドで夫を見上げるロザムンド・パイクのショットは、映画冒頭とラストと二回繰り返される。その顔に浮かぶのは虚無であり、眼の奥に潜むのは、男には理解できない女の深淵の謎だ。

女は何故急に怒るのか、何故急に不機嫌になるのか、そんなことすら男には分からない。結局のところ、男には女は分からないという、どこか根源的な問いを思い出させる実に印象的な映像。Bob Dylanの「Just Like a Woman」を思い出した。そう、日本の歌なら「黒の舟歌」か。

どこか虚無的なラストへと疾走する、スピードの早い展開とどんでん返し。印象的なショットを重ねてまったく退屈しない149分に仕上がっている。DVD出たら買うなあ。


「インターステラー」を見た。
先週の土曜に、「インターステラー」を観た。



監督は、「ダークナイト」等バットマン・リブート物のクリストファー・ノーラン。バットマンのあのなんともダークな感じは実によかったが、今回はもっとSF色が強い。ブラックホール、事象の地平線、ワームホール等SFでは昔から聞きなれた単語が飛び交うのだが、宣伝ではあまりSF臭が前面に出ず、「父娘の感動の再会」というトーンがあるので、意外に面食らう人もいるのでは。
  
宇宙物理学者キップ・ソーンを製作総指揮に迎えたというのが売りのひとつだが、確かにブラックホールの姿は、降着円盤の鮮やかな姿など、最近の天文学での知見が反映され実に美しい。ハッブル望遠鏡の撮影した外宇宙を思い出す鮮やかな宇宙が大スクリーン一杯に広がる。

ただまあ、いくら学者が製作総指揮とはいえ、主人公が宇宙服ひとつでブラックホールを潜りぬけるというようなご都合主義部分は、おそらく目をつぶったのだろう。映画は映画、科学ドキュメンタリーではないからねえ。

「インターステラー」とは恒星間旅行のことだが、ワームホールを使って主人公が探索する外宇宙の惑星描写は実に美しい。水の惑星の超巨大津波には度肝を抜かれた。

全体に「2001」へのオマージュのようなショットがあちこちに。まるでモノリスのようだと思っていた人工知能ロボットにはもちろんHALが投影されているのだが、惑星探索の場面になって急にシャカシャカ走り回るのにもびっくり。確かに自分で動かずに単なる板のままだったら運ぶだけで往生しますな(笑)

砂嵐と疫病によって生態系が破壊され、滅びつつある地球が背景なのだが、設定の説得力は若干疑問を感じるところ。製作総指揮の宇宙物理学者はあんまり興味無かった部分なのでは。

地球の人類そのものを助けるのか、それとも人類のDNAを外宇宙に運び、新天地で一から人類を増やして行く事でよしとするのかの葛藤が後半への重要な伏線。

人類全体を星間移住させるPLAN Aには、重力コントロールする方程式の解決が必要らしいのだが、この辺りは言葉でベラベラ喋るだけであまり親切に説明されているとは言えない。ブラックホールの内側を観測すると方程式の解を導く役に立つとかいう言及もあるのだが、これも映画としてはあまりカタルシスを持って成立した設定ではない。やるなら中途半端な科学的説明は全部省いて、そこに行けば何故か知らんが手に入る秘密、ヒッチコックのいう「マクガフィン」とする扱いでよかったとも思うのだが。

主演のマシュー・マコノヒーは若い頃のポール・ニューマンをちょっと思わせるが、人類生存のために恒星間旅行に出かける使命感と家族への愛の板挟みになる人物を印象的に演じている。同僚の飛行士アン・ハサウェイやマコノヒーの娘、マーフィーの少女時代を演じるマッケンジー・フォイもよい。

空気が無い場所では音が伝わらない事をきちんと再現した宇宙空間の場面も随所で実に印象的だし、壮麗なブラックホールの場面も美しい。同時に思い出すのは、「2001」ががいかに優れた映画であったかということ。キューブリックが今のCGテクノロジーを自在に駆使して映画を取ったら、いったいどうなっていただろうか。

ただひとつだけアラを述べると、169分の上映時間はちょっと長すぎる。全体に言葉による説明が冗長。エピソードを詰め込み過ぎている感もある。もうそろそろまとめに入ってほしいなあ、と思ったあたりで、映画はまだ、マシュー・マコノヒーが、半壊して墜落しかけているステーションにシャトルをドッキングさせようと奮闘中。地球に残した娘との関係にも解決ついてないのだし、どうなるんだ、スリルとサスペンスはもう充分なんだがなあと気が遠くなる(笑)

尺が長くなるのは、もともと話のスケールが実に大きいのである程度しかたないが、導入部分のインド空軍のドローンを追いかける場面とか、植民候補の異星で某大物俳優が出てくるシーケンスとか、カットしても大丈夫なシーンが多々あると思うなあ。「ダークナイト・ライジング」もそうだが、クリストファー・ノーランは映画を長く撮るのが好きなようだ。

そうそう、クライマックスで鳴り響く、「皆さん! 感動するのはここですよ!」という大音響の押し付けがましい音楽もちょっと気になる。このあたりもまあ、監督の個性というか趣味なのだろうが。

しかし払った値段分以上に十分楽しめる。美しい画面とセンス・オヴ・ワンダーに溢れた映画だった。

高倉健「NHKスペシャル」と「プロフェッショナル 仕事の流儀」
録画してあったNHKスペシャル、「高倉健という生き方」本人ロングインタビューと、同じくNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」高倉健スペシャルを両方見た。

過去日記にも感想を書いたが、結果的に遺作となった「あなたへ」の撮影中に高倉健が応じたNHKロング・インタビューが素材。インタビュー・ソースは同じでも、内容の重複は最小限で両方見ると実に興味深い。いつまでも生きてる訳じゃなし、自分の事もそろそろ語っておかないとと思って、という本人の述懐は、亡くなった後で聞くと実に複雑な心境になる。

高倉健が生まれたのは気性の荒い男達が集まる九州の炭鉱町。子供の頃は、祭りの後など喧嘩があると翌朝にはムシロを掛けられた死体が街角に転がっていた事がよくあったのだそうである。歌舞伎の世話物でもすぐに殺人が起こるが、昔の江戸なんかでも多分そうだったんだろうなあ(笑) 

本人にも短気で激しい血が流れており、映画俳優初期に出演してスターへの足がかりとなった初期の任侠物は自分の血にあっていたのだと本人は語る。

しかし年間10本も撮影するようなルーチンに疲弊し、途中でポルシェに乗って旅に出て、撮影を三カ月もすっぽかしたことがあるのだとか。やがて高倉健は映画会社を退社し、独立した映画俳優としての人生を模索することになる。

重厚な俳優としての再出発の基準点ともなった映画「八甲田山」の撮影には三年間かかったが、高倉健はCM等他の仕事を一切いれず、自宅マンションもベンツSLも切り売りしながら映画だけに集中したのだとか。

「生き方が芝居に出る」。

身体を鍛え体型を維持し、出演映画は自ら納得のゆくものを選び、本を読んで下調べをする。身内の葬式には出た事がない。そんな事で撮影を休みにするのはプロとしての挟持が許さないのだという。

私生活では飄々としてジョークも飛ばす。撮影現場ではスタッフや他の出演者、地元の人に至るまで気軽に声をかける。気が抜けてしまうからと撮影中は一切座らない。威張らず騒がず、静かに撮影に挑む。生まれ育った川筋者の気質を、高倉健が自らどのように律してきたのか、そこに高倉健が高倉健として確立した秘密があると思うが、そこまでは本人の口からは語られない。

私生活を秘密にして、スクリーンでも実生活でも一貫した「高倉健」という存在を演じきった男。まさに銀幕のスターという名前にふさわしい俳優だった。


高倉健さん追悼で見たDVD 「駅 STATION」   
高倉健さん死去 「不器用な男」日本人の美学重ねとの記事。

高倉健さんも享年83歳。最近メディアで見たのは去年の文化勲章受章の時だったか。体型の維持には気を使い、ずっと節制してトレーニングしていたとも報道されていたが、免疫系の不調ではやむを得ないか。

個人的には父親世代にあたり、若い頃の任侠映画での活躍はリアルタイムでは知らないのだが、「映画スター」とまさに呼ぶにふさわしい俳優であった。

確か主演作のDVDを持ってたなと探すとあったのが

「駅 STATION」


監督 : 降旗康男、脚本 : 倉本聰。1981年の東宝映画だから高倉健は50歳。まだ若かったなあ。

オリンピックの射撃選手であった北海道警の刑事を高倉健が演じる。

許しあえたかもしれない結婚、救えたかもしれない同僚、実ったかもしれない恋。運命の輪は巡り、偶然に翻弄されて、この不器用で愚直な男の手から、ありえたかもしれない幸せが何故かこぼれおちてゆく。

しかし、泣き言も愚痴も言わず、全てを黙って自分の胸にしまい込んで生きて行く、寡黙で荒れる波に立つ巌のような男。この男の背景には北国がよく似合う。倉本聰が最初から高倉健を主演に設定して「あて書き」で書いた台本。

倍賞千恵子が一人でやっている居酒屋のシーンが出色の出来。しばれる吹雪の外から誰も客のいない小さな店内に入って来た高倉健。

お互いに探るようなやり取りから熱燗のやり取りが進み、ストーブの炎にだんだん身体が温まり、コートを脱いで行くように、互いの距離が詰まってゆく。若い頃観た時は、微妙な男女の機微が分からなかった部分もあるが、今見直すと、薄倖だが明るく可愛い女を演じる倍賞千恵子が、実にしみじみとよいなあ。

八代亜紀の「舟唄」が流れる小料理屋のカウンタ、「一緒に紅白観ようよ」とかかってくる電話、年末に帰省して雪深い故郷に戻ってくる人々。懐かしき昭和の風景。

烏丸せつこ、いしだあゆみ、宇崎竜童、大滝秀治、池部良、佐藤慶、小林稔侍など脇を固める俳優も印象的。若かりし頃の任侠物よりも、照れ屋で不器用で武骨な健さんが、そのまま健さんらしく記憶に残る、実によい映画。TVでもまた放映するとよいのだが。



「猿の惑星:新世紀(ライジング)」を観た
「猿の惑星:新世紀(ライジング)」を観た。原題は「DAWN OF THE PLANET OF THE APES」。「ゾンビ」の原題をちょっと思い出すなあ(笑)



2D上映でよいかと思っていたのだが、ちょっと時間が合わなかったので3Dを選択。あえて3Dを選択するほどの超巨大スペクタクルは無いのだが、鬱蒼たる森のシーンや最後のタワーのシーンはなかなか迫力あり。

オリジナルの「猿の惑星」は1970年代に大ヒットしたハリウッド映画のシリーズだが、これはオリジナルとは新たに製作された、いわゆる「リブート物」の第二作。最近のハリウッドの大作は「リブート」ばかり。物語の類型にも限りがあり、魅力あるオリジナルのコンテンツを製作するアイデアが枯渇してきたのかも。いずれにせよ「猿が地球を征服する」というアイデアは一貫しているので、その点では妙な破綻無く安心して観ていれるというか。

映画はリブート第一作から10年ほど経ったサンフランシスコ。猿の知能を飛躍的に高めるが人間には致死的な「猿インフル」が蔓延し、人類の文明社会はまさに終焉を迎えようとしている。

映画のタイトルバック、世界地図に航空路線を示す赤いラインが伸びて行き、それに伴って次々とウイルスのパンデミックが世界各地で起こって行く映像は実に印象的だが、前にもどこかで同じのを観た気がするな。

映画の冒頭で描かれるのは、サンフランシスコ北の山に暮らす進化した猿達の平和な共同体。この猿の集落は、以前に南米アマゾンの奥地で見つかったと報じられた原始的な部族の集落とよく似ている。

映画がスタートしてからしばらくは、登場人物は猿だけ。もう人間は死に絶えたのではという猿達の会話も描かれるが、若い猿たちが川での漁の帰り、森の中で突然思いもよらず人間と遭遇する時の驚きが印象的に描かれる。

違う世界に住んでいたはずの進化した猿たちと滅びつつある人間の不幸なコンタクト。猿と人間との間で、根源的な疑念と恐怖によって湧き上がる憎悪。これは、民族間、部族間や宗派間でいがみ合っている現実世界の一種の戯画として見事に成立している。進化した猿にも人間にも家族愛や他者への情愛がある。しかしそれをも押し流して行く戦いへの憎悪の連鎖。

元々オリジナルの「猿の惑星」自体が、単純な人種差別問題だけでなく、公民権運動やブラック・パワー、キリスト教原理主義などのアメリカの歴史が投影されているシリーズであり、本作でもそのテイストはきちんと踏襲されている。

燃料が枯渇しようとしている人類社会。その最後の希望として水力発電所を再稼働させるために人間たちが森に入って行くというエピソードは、電力が再び供給された時の美しいシーンとして見事に成立している。しかしIMDbによると、実際のマリン・カウンティには水力発電ダムも川もないのだそうで。まあ確かに川はありそうもない場所だ。

監督のマット・リーヴスは、「クローバーフィールド/HAKAISHA」「モールス 」の監督。重厚な画面とサスペンスの盛り上げ方が実に巧み。猿の表情は人間の俳優が演じているが、これも印象的。そして、人間と進化した猿は結局共存できないのだという諦観を感じさせる苦いラスト。

チャールトン・ヘストンが、宇宙船で見知らぬ惑星に上陸すると、言葉をしゃべる猿が馬に乗り、野生状態で野に暮らす半裸の人間たちを狩っている。ヘストンは、なぜ人間が言葉をしゃべるんだと猿に驚かれ、標本として囚われの身となる。本作は、このオリジナル「猿の惑星」第一作の設定まで、あとほんの数歩の所まで来ている。次回作は果たして製作されるだろうか。もし今までの設定を引き継ぐとしたら、やはりヘストンが宇宙船で地球に降り立つとかしないと次の話が繋がらない気がするのだが(笑)。


「LUCY ルーシー」を観た
土曜日に、「LUCY/ルーシー」を観た。



リュック・ベッソン監督、スカーレット・ヨハンソン主演のSF。

単にブリーフケースをホテルのカウンタに届けるだけだと思ったら、主役のLucyはあれよあれよという間にとんでもないトラブルに巻き込まれる。悪役演じるチェ・ミンシクは、血まみれになって韓国語で怒鳴り散らすのだが、字幕ないので何言ってるかサッパリわからず、これが結構異様なテンション。劇中のカー・チェイスも大変迫力あり。スカーレット・ヨハンソンも印象的。

映画の冒頭から凄まじい疾走感を持って暴走するローラーコースター・ムービーなのだが、全般に作りは荒い。

ビニール袋密輸するのになんで腹を切って体内に埋めるんですかとか、人間の脳を使い切るだけでなんで物を自由に操れたり、時間を巻き戻せるようになるんですかとか、よく考えると疑問だらけ。

「グラン・ブルー」、「ニキータ」、「レオン」、「ジャンヌ・ダルク」などベッソンの作品には好きなのが沢山あるが、こんな荒っぽい作りの映画を撮る監督だったかねえ。

人間の脳は10%しか機能していないというのはよく聞く話だが、何の根拠もない単なる都市伝説。PCだっていつもプロセッサやDRAM、HDDの最大容量を常に使いきったてる訳ではないのだから。まあSF映画の導入としては面白い設定ではあるが。

何百万年も前のアフリカに行って類人猿と会うという設定は、なかなか突き抜けているのだがお話の説得力というとねえ(笑)。余談ながら、アフリカで見つかった最初のアウストラロピテクスの化石には「ルーシー」と名前がつけられているのだが、主人公の名前はそこから発想したのだろうか。