97年から書き続けたweb日記を、このたびブログに移行。
「この国が忘れていた正義」
「この国が忘れていた正義」(中嶋博行/文春新書)読了。

日本の刑罰システムは、どんな犯罪者も更生可能で、矯正によって真人間となれるという主義を信奉する、犯罪者「福祉」型社会であり、犯罪被害者の人権は無視されていると著者は総括する。

日本全体で犯罪者の矯正に使われている予算は、年間2200億円にも登る。しかし犯罪者の大半はまた刑務所に戻ってくる。この再犯の多さから考えると、矯正費用は、果たして本当に社会的に見合うコストか。人間を矯正して真人間にすることなど本当にできるのか。

凶悪な犯罪者については、社会からなるべく長く隔離する厳罰化を進める。刑務所では作業を民営化し、厳しく働かせて、その報酬を被害者への賠償に回す。そして刑期が終わった後でも、法権力を使い、民事賠償債務の取立てを厳しく行い、一生かかって罪の償いをさせてゆく。これがこの本で著者の主張する、「更生」モデルから「賠償」モデルへの転換である。

単なる因果応報の厳罰主義ではなく、被害者の救済を原点に据えた主張には、なかなか説得力があり、著者の主張には賛意を表したい。ただ、どうもどこかで読んだような話が多いなと思ってたら、以前読んで感想書いた、「罪と罰、だが償いはどこに」と同じ著者の本であることを後書きで発見。ははあ、なるほど。

アメリカでも、60年代は、「人間は矯正可能」という「治療モデル」に基いて、囚人を次々に仮釈放したが、犯罪率の増大と再犯者による凶悪犯罪が多発し、やがて、刑期を最大限に長くして、犯罪者を徹底的に社会から隔離するという「正義モデル」に転じたのだとの解説は、前著とも共通するが、実に興味深い。

「三振即アウト」法や、刑期の累積による100年以上の懲役判決、多数に上る死刑執行数など、このアメリカ流の「正義モデル」というのは、死刑廃止が常識となりつつある世界の趨勢とは逆方向を向いているとも思える。ただ、厳罰傾向に転じたひとつの理由には、やはり、アメリカの凶悪犯罪の多さと凄まじさがある。

シリアル・キラー(連続殺人鬼)という言葉の語源ともなったテッド・バンディは、少女を含む36人の強姦殺人を行ったが、実際にはもっと殺しているという説もある。陪審員はわずか1時間半の合議で死刑判決を下し、死刑執行の日には、「おはよう、テッド。お前は死ぬんだ」とプラカードを持った人々が刑務所前に集まって、バンディの死刑を祝ったのであった。

アメリカでの凶悪犯罪の多さ、その異常性の根源を問うならば、我々は、「ボウリング・フォー・コロンバイン」や、そのアイデアの元になった、「アメリカは恐怖に踊る」などに描かれた、アメリカの闇に潜む「恐怖」の迷宮に、再び分け入って行かねばならないだろう。



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