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97年から書き続けたweb日記を、このたびブログに移行。
文藝春秋「田中角栄の恋文」が面白かった。
今月号の文藝春秋は、巻頭の「田中角栄の恋文」が圧巻の面白さ。

角栄の後援会を管理し「越山会の女王」と呼ばれ、角栄の秘書かつ側近であり、そして私生活では愛人でもあった佐藤昭子の死後に、自宅金庫から角栄が佐藤に出した手紙が見つかった。この手紙を実娘が立花隆に見せたところ、角栄の実像を示す一級資料だと勧められ公開したのだという。

「君(佐藤昭子)と敦子(娘)を誰よりも愛し将来の幸福のため全力を盡します」と書かれた誓紙があるほか、長文の手紙もあり。

この手紙は、角栄の愛人となり子供も出産した佐藤昭子が、住む場所について角栄にあれこれ要求したが容れられず、前夫と別れさせたのに愛情が無い、金を惜しんでいると激怒しており、これに手を焼いた角栄が「世の中すぐに全てが思うようには行かない」と佐藤をなだめながらも、「君程の悧口な女は初めてである」「これが縁であり前世からのものかも知れんとさえ思っておる」「代議士をやめてもよい」と愛情を伝える言葉が並んでいる興味深いもの。1500万円の現金と共に佐藤の元に届けられているのだが、当時の物価からするとこれは現在の1億5000万円相当だという。いやはや凄いなあ。

田中角栄には、もちろん本宅があり、そして佐藤昭子以前にももうひとつ家庭があった。こちらは落籍させた神楽坂の元芸者。しかしプロであるから、生まれた子供さえ認知して、お金を与えてちゃんとしておけば、大きな文句は言わなかったに違いない。今となっては隔世の感があるが、昔の日本はそういう世界であった。しかし佐藤昭子との関係を「ちゃんとする」のは角栄にしてもなかなか大変だったようである。

角栄と佐藤との最初の出会いはまだ佐藤昭子が17歳の頃。新潟での角栄の選挙活動中。角栄の手紙には、その時の角栄の一目惚れであった事を思わせる記述がある。そして次に東京で再会した時には、佐藤昭子はすでに2度目の結婚をしていたのだが、田中の引きで田中の事務所で働くようになり、そのうちに男女の仲に。生まれた娘には、角栄を「お父さん」と呼ばせていたそうだが、認知はしていない。そもそもまだ佐藤と前夫との籍が入っているうちに生まれており、自動的に前夫との籍に入る。佐藤昭子は以前書いた著書で「前途ある政治家に認知は求めなかった」と書いているのだが、単なる婚外子の認知とは違い、いったん法的には確定した親子関係を変更するのは大変で、おそらく角栄にも実行不能だったのでは。

それにしても、本宅の他に別宅もあったにもかかわらず、まだ他の男性と婚姻関係にあった佐藤とそんな仲になるのだから、角栄の佐藤昭子への執着というものも奇異な気さえするのだが、この真剣な恋文を読む限りでは、やはりある意味前世からの運命の邂逅、角栄の純愛だったのかもしれない。

総裁選出馬前、「佐藤昭子との関係は命取りになりかねないから切れ」と角栄の腹心は諫言した。しかし角栄は「私と佐藤昭子の間には君達も知らない特別な関係がある。それだけは絶対にできない」と拒んだのだという。角栄が自ら選択したこの修羅は、やはり角栄がどれだけ佐藤昭子に執着し愛していたかを考えないと理解できない。

佐藤昭子が書いた「私の田中角栄日記」には、金権と非難され、ボロボロになった退陣前の角栄が「すべてが終わったら、一緒に田舎でのんびり暮らそう」と佐藤にいつも語っていたと書かれている。

正式な婚姻はできず、その娘も法的に認知できなかったが、やはり佐藤昭子は、田中角栄にとって、ファム・ファタール(運命の女)だったことがよく分かる手紙。しかし角栄は脳溢血に倒れ、重篤な後遺症が残り、言葉と身体の自由を失う。実の娘田中真紀子によって自宅に幽閉されてから、二人は二度と会うことはなかった。

(関連過去日記)
「越山会の女王」の死去

「私の田中角栄日記」



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