97年から書き続けたweb日記を、このたびブログに移行。
「らも―中島らもとの三十五年」
Amazonに発注した「らも―中島らもとの三十五年」を手に取って一気に読了。

94年に階段からの転落事故で亡くなった中島らもとの波乱万丈の人生を、奥さんであった著者、中島美代子が振り返る本。

中島らもと付き合いだした頃の青春時代については、らも自身が「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」で書いている。三宮のたまり場であったジャズ喫茶、繰り返したバカ騒ぎ。ノートに筆談で書いた店での会話。そして恋の告白。実に懐かしいエピソード。本当にその通りだったんだ。

しかし、らもと著者が結婚した後からの暮らしぶりにはびっくり。家にはいつも中島らもが連れてきた誰か分からぬ客人がたむろしており、ハイミナール(睡眠薬)でラリって、咳止めブロンを一本飲みして、アルコールを飲んでヘロヘロになる、とんでもない状態。夫婦揃って誰とでも寝るという、あっけらかんとした貞操観念の無さにも驚かされる。

中島らもの家は、当時の不良外国人達にさえ、「ヘル・ハウス」と呼ばれたとあるが、日本にも、まるでサンフランシスコのヒッピーのような事を地でやってる連中が、本当にいたのだなあとあっけにとられる部分。しかし、この部分を読んで嫌悪感を抱かないのは、著者中島美代子の、無邪気ともいうべき、人に乞われたらなんでもやってあげるという、なんだか細かい社会常識を突き抜けた善意の個性が際立っているから。ある意味、マグダラのマリアだな。

その後のらもの、コピーライター・エッセイスト・小説家としての成功、劇団の設立、躁鬱症の発症など、らもが、「みんなの中島らも」として祭り上げられ、そして壊れて行く過程も、著者の淡々とした述懐で描かれるのだが、時として寂しく、時として悲惨なもの。

らも本人のエッセイでもこのあたりは触れられているのだが、本書での驚くほど直裁な内幕を読むと、実は生真面目な中島らもは、エッセイもきちんとユーモアとペーソスがある作品として読めるよう、ずいぶん考えて書いてたのだろう。

本書では、著者が知った、夫である中島らもを巡る様々な女性関係についても書かれているのだが、これも暴露的というよりも、中島らもという人間を、結局のところ扱いあぐねた彼女たちへの、ある意味優しき同情あふれる筆致。

中島らもを、繋ぎ止め所有することができないのを知っていたのは、実は同じ魂を持つ中島美代子だけだったのかもしれない。結局のところ、ズタボロになった中島らもは、最後に彼女の元に帰ってくるのだから。

書かれている内容はあまりにもあからさまで、ある意味暴露本にも近いのだが、不思議に後味悪い印象が無い。それは、著者の中島美代子が、誰の事も悪く書かず、らもとの出会いを、誰よりも束縛されることを嫌い何事にも捕らわれない自由な心を持った二人の運命の邂逅として描いたから。

そして随所に、著者が生涯抱き続けたらもへの素直な愛情が描かれており、読後感はまるでひとつの純愛物語を読んだかのよう。後書きにある、らもとのデートで行った保久良山上でのキスの話が泣かせる。


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 前 略
想う所あって、 美代子夫人を検索中にお邪魔しました。

「人に~・・・・・・・・・・・・・~マリア。」の記事
拝読させて頂き、心が落ち着きました。

                      邂 逅
2012/04/14(土) 12:40:23 | URL | 宵待草 #uPSz3z/g[ 編集]
示唆された部分は、
「人に乞われたらなんでもやってあげるという、なんだか細かい社会常識を突き抜けた善意の個性が際立っているから。ある意味、マグダラのマリア」
の辺りでしょうか。

中島らもは、なんだかんだ言いながら、ボロクズのようになって結局は中島美代子の胸に帰ってきたし、著者自身もそれを自然に受け止めているところが心を打ちました。

運命の邂逅だったのですね。
2012/04/15(日) 00:00:38 | URL |  Y. Horiucci #-[ 編集]
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