97年から書き続けたweb日記を、このたびブログに移行。
「グラン・トリノ」を見た。
書くのを忘れていたが、「グラン・トリノ」を見たのは、日本帰国時のUA航空機内。

監督・主演のクリント・イーストウッド演ずるのは、フォードで組み立て工として長年働いて引退した老人。妻に先立たれ、自らも人生の終盤に差し掛かっている。イーストウッドも俳優として映画に主演するのは、これが最後とのことである。

工場の現場で真面目に勤め上げれば、小さいながらも庭付きの一軒家を購入でき、車も複数台所有し、子供にも高等教育を受けさせ、立派に育て上げることができる。芝生の手入れや、家の手入れは一家の大黒柱の仕事。主人公が家の裏のガレージに置き、いつもピカピカに磨き上げている70年代のスポーツ・カーの名車、グラン・トリノは、「この先にはよりよい未来が待っている」と誰もが信じた、古き良きアメリカの象徴でもある。

しかし、アメリカではモノ作りが没落し、昔の工業地帯は地盤沈下する。人種のサラダボウル化が進んだ昔の中心街ではスプロール化により、白人は次々に郊外に逃げ出し、昔は白人ばかりが住んだ町並みには、少数民族が次々と移住する。世代の断絶とともに、住宅街は荒れ始め、マイノリティ犯罪も増加。

夫人亡き後、一人で自宅に住むイーストウッド演じるコワルスキは、ベトナムでの心の傷を未だに心に秘めながら、実の息子達とはうまく心の交流が図れない孤高の男。映画の冒頭で描かれた、コワルスキを巡る環境は、現在のアメリカの現状そのものである。

<ここから先は一部ネタバレあり、注意のこと>

たまたま隣の家に移住してきたアジア系少数民族、モン族一家の姉弟と、ふとしたことで交流するようになったコワルスキは、父親のいないこの一家の、頼りない少年の父親代わりとして、自分の最後の人生をかけて、この少年を立派な男に仕立て上げようとする。そして、モン族のギャング達を巡ってのトラブルと、巻き起こる悲劇。

昔の西部劇であれば、悪者にいじめられ、難儀している家族に同情した流れ者のヒーローは、ひとりで悪漢達を撃ち殺し、憧れに満ちた目で彼を見つめる一家の少年の前から、馬に乗って静かに砂漠に去って行けばよかった。そう、「シェーン」のように。

しかし、現在のアメリカで、マイノリティの家族を助けようとする引退した労働者階級の男には、どこにもヒーローとして去って行く場所は無い。そして、彼はもう「ダーティー・ハリー」でもないのだった。実に複雑な感情を呼び起こす、一種、無情で皮肉なラストシーン。

自分の息子達とは、一度として心が通じ合ったことがなかった男が、人生の終りに、まるで孫のような年齢のアジアの少年と友人になり、少年を救うために悲痛な自己犠牲を払う。いや、それは自己犠牲というよりも、教会での懺悔でも、決して神父に告解しなかったベトナムでの心の傷を持つ男が、人生の終りに自らに課した、一種の贖罪であったのかもしれない。

この映画では、アメリカ社会の閉塞と影や、老いてゆくアメリカ白人の孤独を描きながらも、しかし、観客に、一種の救いを呈示しているようにも思える。

事件現場に集まった警察官の中にも、モン族の男がいる。少数民族出身であっても、教育を受け、職を得て社会進出し、いずれは社会の中枢に駆け上る者が必ず出てくる。それが、アメリカ社会を一種支えてきたダイナミズムでもある。

遺言で、コワルスキは、(そう、この主人公の名前そのものが、後からアメリカにやってきたポーランド系移民の名前なのだが)、愛車グラン・トリノをこのモン族の少年に与える。少年がハンドルを握る、ピカピカに磨き上げたグラン・トリノには、「古き良きアメリカン・ドリーム」のトーチが、マイノリティに引き継がれてゆくという、アメリカ再生への希望がこめられているといったら言い過ぎだろうか。

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