97年から書き続けたweb日記を、このたびブログに移行。
「一九八四年]」新訳版~トマス・ピンチョンの解説
「一九八四年[新訳版]」を読了。

旧訳を最初に読んだのはもうずいぶん昔だが、大きな衝撃を受けて何度も再読しており、感想は、発注した日の日記にも書いた。

前の版もハヤカワ文庫から出ていたのだが、その時の題名は「1984年」。今回の新訳は「一九八四年」。英語の現代は、「Nineteen Eighty-Four」で英数字ではないから、こだわって訳すなら、「一九八四年」のほうが正しいのかもしれない。

新訳もよくできている。ただ、以前、村上春樹翻訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んだ時にも感じたが、優れた小説を読む時の感動は、翻訳そのものには、あんまり依存しないのかもしれない。もちろん誤訳は論外だが、多少、語り口が生硬であっても古臭くても、物語の本質や、心をとらえるプロットやレトリックというものは、翻訳を超えてきちんと伝わってくる。

人間性を蹂躙する全体主義への批判を背景に、同時進行するラブ・ストーリー。こんなに哀しく、絶望的な昔の恋人との再会シーンは、他のどんな小説にも無い。そして最後の一行。昔読んだ時の、心を揺さぶる戦慄は、新訳でもそのままに心に蘇る。

しかし、今回の新訳での一番の収穫は、巻末に掲載された、トマス・ピンチョンの解説。

「一九八四年」には、物語が終わった後、なぜか「附録」として「ニュースピークの諸原理」という一種の論文が巻末に収載されている。物語の中で使われる、人間の思考を制限しようとする「新語法」の、語彙と文法に関する研究であり、本文の中でも、巻頭近くで、「ニュースピークについては巻末附録を参照のこと」と注記されている文章。ピンチョンは、「なぜこれほど情熱と暴力と絶望に満ちた小説が、学問的と見える附録によって終わるのか」と自問する。

そして、ピンチョンの、この「附録」に対する解釈は、オーウェルの名作「一九八四年」の読後感に、まったく新しい光を与えるもの。物語の主人公、ウィンストン・スミスの生まれた年と、オーウェルの息子の生年に関する考察も、確かに頷ける部分あり。

この本は何度も読んだが、今に至るまで、そんな事は考えたこともなかった。読んでこんなに感心した解説というのも、今まであまり記憶にない。

もしも旧訳で「1984年」を読んだことがあるのなら、このピンチョンの解説だけは、(本屋の立ち読みでもよいから<オイ)是非とも読むべきだ。このオーウェル古今の名作が、まったく新たな希望の光と共に、記憶の中に蘇ってくるのを、あなた自身が驚きと共に体験するだろう。

もちろん、本編を読まずして解説だけ読むと、単なるネタバレになってしまって、後で読む小説の面白さが半減するに違いない。これは、あくまで、原作を(附録も含めて)読んだことがある人だけのための楽しみなのだが。

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